前書き

『指揮者は何を考えているか:解釈、テクニック、舞台裏の闘い』(白水社)

  • 2019/12/03
指揮者は何を考えているか:解釈、テクニック、舞台裏の闘い / ジョン・マウチェリ
指揮者は何を考えているか:解釈、テクニック、舞台裏の闘い
  • 著者:ジョン・マウチェリ
  • 翻訳:松村 哲哉
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(352ページ)
  • 発売日:2019-06-29
  • ISBN-10:4560097097
  • ISBN-13:978-4560097090
内容紹介:
指揮者自身が、音楽解釈から現場の試練まで「指揮者という仕事」をあらゆる角度から論じる、著名な音楽家のエピソード満載の一冊。
20世紀後半のクラシック音楽界に多大な影響を及ぼしたピエール・ブーレーズと、実業家で楽譜の読み方をほとんど知らないアマチュア音楽家のギルバート・キャプラン。彼らはどちらもウィーン・フィルを指揮して、マーラーの交響曲第二番『復活』を演奏したことがあった。二人の演奏は比較され、キャプランの指揮のほうがよいという人さえいた――。

世界的な音楽家よりもアマチュアが評価される? 「指揮」をめぐるミステリーを解明

二〇一六年一月七日木曜日の朝、「ニューヨーク・タイムズ」を手にした読者は、きわめて対照的なふたりの指揮者の追悼記事を目にしたはずだ。ピエール・ブーレーズ——二十世紀後半のクラシック音楽界におそらくは最も大きな影響力を及ぼした人物——については、第一面にふたつの追悼記事と写真が掲げられた。ひとつめの記事を書いたのは、モダニズムの熱心な擁護者で、以前「タイムズ」紙に音楽批評を寄稿していたポール・グリフィス、そしてふたつめを書いたのは同紙の首席評論家を務めるアンソニー・トマシーニだった。一方、写真が二枚付いた、もうひとりの人物の追悼記事は、経済誌の創刊者として巨万の富を得た実業家で、楽譜の読み方などほとんど知らないギルバート・キャプランという人物に関するものである。このキャプランとブーレーズにはある共通点があった。ウィーン・フィルを指揮して、マーラーの大作、交響曲第二番『復活』を演奏したことがあるという点だ。

ブーレーズは聡明で、正確さを重んじる音楽家だった。パリで申し分のない音楽教育を受け、その教育と持ち前の知性を武器に、第二次世界大戦後のクラシック音楽界を牽引した。指揮者兼作曲家として、彼は常に未来を見据えて活動する音楽家とみなされていた。そして、一九六九年にレナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者を辞任すると、その後任に指名された。

一方、キャプランは法律を学び、ニューヨーク証券取引所で働いた。一九六五年にレオポルド・ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団が演奏するマーラーの交響曲第二番『復活』を聴き、その虜になった。自分が創刊した経済誌『インスティテューショナル・インベスター』を売却し、アメリカ交響楽団に最も多額の寄付をしている人物として、その理事長に就任すると、『復活』の自筆譜とマーラーが使用した指揮棒を入手し、いろいろな人々に金を払って『復活』を指揮する方法——スコアに描かれているドイツ語やイタリア語の意味、腕の振り方、いつどの奏者のほうを向くべきか、など――を習った。

そして一九八二年、アメリカ交響楽団を雇い、リハーサルを行なったうえで、リンカーン・センターのエイヴリー・フィッシャー・ホール(現ディヴィッド・ゲフィン・ホール)に招待客を集め、その前で『復活』を指揮したのだった。

キャプランは暗譜で指揮をした(ちなみに、ブーレーズは常に譜面台に楽譜を置いていた)。コンサートを聴いた招待客はその見事な演奏に感激したが、キャプランにとって、これは始まりにすぎなかった。さまざまなオーケストラとの『復活』の演奏回数は百回を数え、ロンドン交響楽団やウィーン・フィルとは録音も行なった。もっとも、キャプランの業績をプロの指揮者たちも評価しているだろうと考える人間がいるとしたら、それは早計と言わざるを得ない。

十分な音楽教育を受けて前衛の旗手となり、誰であれ、何事であれ、厳しく批判したブーレーズは、かつてアメリカの作曲家たちを「アメリカに作曲家はいない、ヘンツェすらいない」というひと言で切り捨てたことがある(自分のライバルと目されていたドイツの作曲家、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの音楽を、ブーレーズはひどく嫌っていた)。そもそもそんなブーレーズが、ずぶの素人と比べられるなどという事態はどうして起こったのだろうか。反体制派のアンファン・テリブルであったブーレーズは、アメリカでニューヨーク・フィルやシカゴ交響楽団のポストに就き、パリではルーブルに次いで多額の国家援助を受ける国立音響音楽研究所の所長に就任したことで、言ってみれば一夜にして体制側の人間になった。キャプランはというと、オーケストラに金を払い、自腹でレコーディングを行なった。

それでもふたりのマエストロは、世界一流と言われる同じオーケストラを振って同じ曲を演奏して比較され、キャプランの指揮のほうがよい、と言う人さえいるのだ。

読者の皆さん、指揮者という職業をめぐる最大のミステリーがここにある。指揮者とは何者か? 指揮者はいったい何をしているのか? 指揮者の能力、さらに「偉大さ」とはなんだろうか? 巷にあふれる——インターネットを覗いてみてほしい——アマチュア評論家同様、皆さんもウィーン・フィルとのキャプランの『復活』を「思いがけない名演」と評価するとしたら、和声学と対位法、スコア・リーディングを学び、コンクールを受け、田舎のオーケストラのアシスタント・コンダクターから一歩一歩這い上がって、一流とは言えないオーケストラの音楽監督の下で副指揮者を務め、ウィーンでマーラーの『復活』を振る機会など望むべくもない指揮者たちは、いったいどうすればよいのだろうか?

不思議なことに、こうした「指揮者の評価」をめぐる混乱は、現実に起こり得るだけでなく、完全にナンセンスとも言い切れないのだ。というのも指揮は、皆さんが考えているより大変な仕事であると同時に、それほど大したことのない仕事でもあるからだ。私がこの本を書いたのは、怪しげで混沌とした「指揮者の仕事」をとことん突き詰めて考えてみようと思ったからである。というのも、指揮の世界は、ありとあらゆる矛盾する事柄から成り立っていて、指揮者という仕事をどういう観点——音楽、技、劇場、職業——から眺めても、その良し悪しを判断する共通の基準さえない。聴き手から「すごい」と思われた指揮者は天才になり、「ひどい」と思われた指揮者はペテン師になる。一部の人々から神と崇められることがあっても、指揮者はしょせん人間であり、それ以上でも、それ以下でもない。

[書き手]ジョン・マウチェリ(指揮者)
指揮者は何を考えているか:解釈、テクニック、舞台裏の闘い / ジョン・マウチェリ
指揮者は何を考えているか:解釈、テクニック、舞台裏の闘い
  • 著者:ジョン・マウチェリ
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  • 装丁:単行本(352ページ)
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