この世へ言いのこす23人の苛酷な体験
ラジオの番組「アーサー・ビナード『探しています』」から生まれた。戦争体験談の聞き書き。なぜか日本のマスメディアが夏の「行事」にして、八月十五日が過ぎると、きれいに忘れ去るもの。それを丸一年つづけた。そこから二十三人の証言を採録、それぞれに編著者の警抜な小エッセイをそえて構成した。ビナード作には先に『さがしています』(岡倉禎志写真・二〇一二年)がある。広島平和記念資料館に収蔵されている遺品--穴のあいた軍手や、ひしゃげたアルミの弁当箱や、はき古しの靴が、自分と持ち主にまつわる話をする。原爆で一瞬にして「孤児」になった日常品が、もの静かな口調で大人たちに問いかけた。
このたびは人である。真珠湾総攻撃に加わったゼロ戦パイロット、ニューギニアの戦場の数少ない生還者、海軍特別年少兵、玉砕の島硫黄島で捕虜になりアメリカへ運ばれた人……。
この本のなかんずくすぐれ、そして特異な一点だろう。一人ひとりに元「敵国」人が、自分の役まわりの奇妙さをよく承知した上で、マイクをもって問いかけた。BC級戦犯として重労働二十年の判決を受け、のちにスガモ・プリズンに収監された人が、おもわず口にした。「君の国籍はどこだ。アメリカか。君は外国人だ。だが、日本人よりは、はるかに俺のいうことをわかっている。(……)本日ただ今をもって、俺の友人だ。もう多くを語る必要はない。それを語るだけの時間の余裕もない」
語り手の多くが高齢者であって、語り終えて一年以内に永眠の旨がしるされている。写真に見る、泣くような満足げな顔が印象深い。日本語を母語としない人が、この世へ言いのこす聴聞僧になった。
アーサー・ビナードは一九六七年、アメリカ・ミシガン州の生まれ。アメリカで日本語を知り、来日して日本語を学び、日本語で詩作、著作を始め、数々の賞を受け、日本人のつれ合いを見つけ、日本に住んで二十年あまり。
その間に自分がアメリカで学んできた定説への疑問が生まれた。大日本帝国は予告もなしに、アメリカ・ハワイ州真珠湾に奇襲攻撃をかけたのか。原子爆弾の投下は戦争を終わらせるために必要かつ正しかったのか。時とともに疑問がしだいにふくらんでいく。
リアルタイムで戦争の現実を知らないからには、まさに身をもって体験した人から話を聞く。ラジオ番組のタイトル『探しています』は二重の意味をおびていた。一つは幅広く人を探して、証言してもらう。戦争体験者は戦闘の場とかぎらない。軍国少女の日々、毒ガス製造工場の学徒動員、アメリカ生まれでアメリカ育ちながら開戦とともに強制収容所に送られた人、二歳で満州に渡り、敗戦の混乱をようよう生きのびて帰国した人、オンボロの疎開船で九死に一生を得た人、広島の爆心地から2キロの家でピカに遭った人、長崎の原爆被害者、その長崎以後にもアメリカ軍原爆投下部隊の訓練の継続をあかるみに出した人……。編著者が冒頭に述べている。「なにかを本気で知りたくなると、どこかで知っている人とつながる道が、不思議と切り開かれるものだ」
その多彩な証言者のさりげないひとことに、切先鋭い弾劾がある。
「兵士は結局、機関銃や大砲や戦闘機と同じなんだ。使えなくなれば捨てられる」
「わたしたちはなんも知らないまま、毒ガスに携(たずさ)わらされ、運ばされていたんです」
一九四五年六月、沖縄司令部の「本土出身の参謀たち」は、軍服を脱いで、沖縄の黒い労働着に着替え、戦況報告を口実に壕(ごう)を出て行った。一部始終を見ていた二十歳の青年は、彼らの白い足首をながめ、「ああ戦争に負けた」とはっきり感じた。
静かなひとり語りが苛酷な状況を復元していく。かたわらに息をつめた聞き手がいる。詩人ビナードはよく知っている。かぎりなく死に近づいたなかでこそ、人は鮮明かつ正確に記憶すること。その人の記憶がたえずもどっていく一点には、人間的やさしさと強さがひそんでいること。
原タイトルのもう一つの意味は、ふくらんできた定説への疑問を解く手がかりを「探しています」。日米両政府、また軍部の謀略、すりかえ、隠ぺい。ことごとしい批判はしるさず、代わりに事実に語らせた。さらに言葉の分析をもってした。「玉砕」といった時代の常套句(じょうとうく)が、いかに人を呪縛して死を運命づけたか。現実をカモフラージュする言葉の手口は、現在もなお少しも変わってはいないのである。
しめくくりにアメリカの詩人の「平和」の定義が紹介されている。平和とは、「どこかで進行している戦争を知らずにいられる、つかの間の優雅な無知」。七十年つづいた戦後日本の平和は「優雅な無知」なのかどうか。ここに
は歴史を証(あか)し立てる「戦後づくり」の知恵がつまっている。