書評
『ナガサキ昭和20年夏―GHQが封印した幻の潜入ルポ』(毎日新聞社)
一九四五年九月六日午後、一人のアメリカ人ジャーナリストが廃墟となった長崎の駅に降り立った。原爆が落とされてから、ちょうど四週間経ったときである。
彼の名はジョージ・ウェラーという、『シカゴ・デイリー・ニュース』のベテラン記者で、ピュリツァー賞を受賞した経歴を持つ。民間人とはいっても、正式の身分は従軍記者。原子爆弾の被害を調べるのは、当局の指令によるものではなく、公正で客観的な報道を目指すためだ。当時、マッカーサーは西日本の全域について報道陣の立ち入りを禁止しており、終戦直後の混乱のなかで長崎に行くことは困難を極めた。
九州の南端に鹿屋(かのや)という特攻基地だったところがある。唯一、取材が許される西部の町だ。ウェラーは米軍の飛行機でいったん鹿屋に入り、引率兼監視役の将校の目を盗んで、夜明け近くに宿舎を抜け出した。北へ向かう列車に乗り、途中何度も乗り継いで、二日後にようやく長崎入りを果たした。
米軍の大佐になりすましたウェラーは地元の日本将校の協力を得て、精力的な取材をはじめた。ある程度予想したとはいえ、ウェラーの目に入ったのは衝撃的な光景ばかりだ。駅までの十六キロメートルほどのあいだ、線路の両脇の建物はがれきの山となり、市内のいたるところで民家は焼けただれていた。
建造物の損壊よりも痛ましいのは、放射線を浴びた無辜の市民たちの惨状だ。大量の死者が廃墟のなかで黒こげになっており、病院には包帯で覆われた患者が溢れている。「X病」と呼ばれた被爆者は次々に死んでいき、幼い子どもたちがやけどを負い、髪の毛が抜け落ちている。
ウェラーは目撃したことを記事にしたが、アメリカ軍司令部主任検閲官の手元に届けられた原稿はすべて差し止められた。二〇〇二年、ウェラーは九十五歳で亡くなった後、息子のアンソニー・ウェラーは父親の遺物の中から、ぼろぼろになったカーボン複写紙の原稿を見つけた、最初はどこの出版社も相手にしてくれなかったが、『毎日新聞』の国枝すみれ記者が二〇〇五年六月十七日付けの紙面でスクープしたことで、この貴重な史料の存在が世界中に知れ渡るようになった。六十年を隔て、海を越えた日米のジャーナリストの連係プレーによって、GHQに封印された記事がついによみがえった。
ウェラーの功績は原爆がもたらした惨劇を、即時にアメリカの市民に伝えようとしたことだ。その試みは失敗に終わったが、記事そのものは六十年以上経った今も歴史の証言としての重みを失っていない。今年(二〇〇八年)の三月十五日夜七時半、編者のアンソニー・ウェラーによる本書の朗読会がボストン郊外の町ニュートンで開かれた。半世紀以上も経ったいま、アメリカの市民がウェラーの記事に耳を傾けていることは意味深長だ。
記憶の公共性という問題を考える上で、ウェラーの努力は示唆に富む。歴史的過去に対し、情緒的な反芻(はんすう)ではなく、真実を共有することが大切だ。真相の解明は責任の追及よりも、無意味な敵意を解消するのに役に立つ。むろんウェラーも全知全能ではない。原爆の役割について、彼の見解は時代的な制約を受けざるをえない。とはいえ、「勝者」が「敗者」の受けた被害に正面から向き合う勇気は素直に評価すべきであろう。原爆被害の調査が、米国およびその同盟国の戦争捕虜についての取材と平行して行われているのも、記憶の共有の仕方について一つの実践例を示したと言えるかもしれない。
彼の名はジョージ・ウェラーという、『シカゴ・デイリー・ニュース』のベテラン記者で、ピュリツァー賞を受賞した経歴を持つ。民間人とはいっても、正式の身分は従軍記者。原子爆弾の被害を調べるのは、当局の指令によるものではなく、公正で客観的な報道を目指すためだ。当時、マッカーサーは西日本の全域について報道陣の立ち入りを禁止しており、終戦直後の混乱のなかで長崎に行くことは困難を極めた。
九州の南端に鹿屋(かのや)という特攻基地だったところがある。唯一、取材が許される西部の町だ。ウェラーは米軍の飛行機でいったん鹿屋に入り、引率兼監視役の将校の目を盗んで、夜明け近くに宿舎を抜け出した。北へ向かう列車に乗り、途中何度も乗り継いで、二日後にようやく長崎入りを果たした。
米軍の大佐になりすましたウェラーは地元の日本将校の協力を得て、精力的な取材をはじめた。ある程度予想したとはいえ、ウェラーの目に入ったのは衝撃的な光景ばかりだ。駅までの十六キロメートルほどのあいだ、線路の両脇の建物はがれきの山となり、市内のいたるところで民家は焼けただれていた。
建造物の損壊よりも痛ましいのは、放射線を浴びた無辜の市民たちの惨状だ。大量の死者が廃墟のなかで黒こげになっており、病院には包帯で覆われた患者が溢れている。「X病」と呼ばれた被爆者は次々に死んでいき、幼い子どもたちがやけどを負い、髪の毛が抜け落ちている。
ウェラーは目撃したことを記事にしたが、アメリカ軍司令部主任検閲官の手元に届けられた原稿はすべて差し止められた。二〇〇二年、ウェラーは九十五歳で亡くなった後、息子のアンソニー・ウェラーは父親の遺物の中から、ぼろぼろになったカーボン複写紙の原稿を見つけた、最初はどこの出版社も相手にしてくれなかったが、『毎日新聞』の国枝すみれ記者が二〇〇五年六月十七日付けの紙面でスクープしたことで、この貴重な史料の存在が世界中に知れ渡るようになった。六十年を隔て、海を越えた日米のジャーナリストの連係プレーによって、GHQに封印された記事がついによみがえった。
ウェラーの功績は原爆がもたらした惨劇を、即時にアメリカの市民に伝えようとしたことだ。その試みは失敗に終わったが、記事そのものは六十年以上経った今も歴史の証言としての重みを失っていない。今年(二〇〇八年)の三月十五日夜七時半、編者のアンソニー・ウェラーによる本書の朗読会がボストン郊外の町ニュートンで開かれた。半世紀以上も経ったいま、アメリカの市民がウェラーの記事に耳を傾けていることは意味深長だ。
記憶の公共性という問題を考える上で、ウェラーの努力は示唆に富む。歴史的過去に対し、情緒的な反芻(はんすう)ではなく、真実を共有することが大切だ。真相の解明は責任の追及よりも、無意味な敵意を解消するのに役に立つ。むろんウェラーも全知全能ではない。原爆の役割について、彼の見解は時代的な制約を受けざるをえない。とはいえ、「勝者」が「敗者」の受けた被害に正面から向き合う勇気は素直に評価すべきであろう。原爆被害の調査が、米国およびその同盟国の戦争捕虜についての取材と平行して行われているのも、記憶の共有の仕方について一つの実践例を示したと言えるかもしれない。
ALL REVIEWSをフォローする




































