書評
『ぼくたちはこうして学者になった: 脳・チンパンジー・人間』(岩波書店)
二人の個性が切り結ぶ対話の妙
一方は異色の物理学者、残念ながら既に物故。他方は、今や国宝級の霊長類研究の重鎮。今から四半世紀まえに行われた対談の文庫版化である。構想的な側面から、細部に至るまで、どのページを披(ひら)いても、無類に面白い、巻を措(お)く能(あた)わず、とはこのことか。その面白さは何層にも及ぶ。普通の読み物としても。例えば何事にも(そのなかにはベーゴマも入る)傑出していた松本少年が、色々な機会に出会った優れた大人から、刺激を受け、医師を目指すか、コンピュータ関連に進むか。二者択一の選択に立たされる場面(結果的に脳型コンピュータの専門家になって、ある意味では「二者択二」となるわけだが)。あるいは東大で、教養課程の一年生から、本郷の高橋秀俊研(日本で最初の本格的コンピュータ<パラメトロン>を大学院生だった天才後藤英一と開発した)に入り浸って仕事をしたり、磁性体研究に進んで助手になったとき、教授から、助手は教授の手伝いを、と言われ、反発する場面で、松沢さんが、あ、京大ではそれは全然違う、と切り込んで、東大と京大の文化の差異が期せずして鮮明に浮き上がる場面、など。類まれなお二人の個性と、それが切り結ぶ対話の面白さが、読者を惹(ひ)きつける。
松沢さんの、西田幾多郎、田辺元、九鬼周造、西谷啓治ら、錚々(そうそう)たる学者を歴史に刻む京大の哲学科へ入学、山岳部卒業というキャリアも面白い。その山岳部も先輩リストは凄い。今西錦司、桑原武夫、西堀栄三郎、梅棹忠夫、川喜田二郎などが名を連ねるのだから。京大を選んだのも、ちょうど全共闘運動の最盛期、東大の入試がなかった、という偶然が松沢さんの運命を決めたことになる。
あるいは、松沢さんがよく言われることだが、日本にはサルの出てくるお話は山ほどあるが、ヨーロッパなどには皆無、理由は、人間の目に触れるところにサルが生きているのは、先進圏では日本だけ、というのも、常識を試されるし、チンパンジーはサルではなくヒトだ、と言って、彼らの数え方は「一人、二人」でなければ、となり、ワシントン条約発効前に、実験動物として日本に連れてこられたチンパンジーたちは、強制移民であった、という表現も、読者は意表を突かれる形になる。
こうしたお二人の若いころの様々なエピソードに触れるだけでも、私たちは、笑ったり、同感したり、ときには、おやおや、と思ったり。読書の面白味を満喫できる。
同時に、学問の世界に関心を持つ人にとっても、この本の面白さは抜きんでている。コンピュータを、脳の機能を代行できる「機械」として構築するのではなく、人間の脳のやっていることを、機械にもそのままやらせるとしたら、どうなるか、という視点で研究を続ける松本さん。その手始めにヤリイカを材料として使う時の苦心談などは、感動的ですらあるが、この独自の路線を貫こうとするのが松本さんであるとすれば、松沢さんは、チンパンジーの外界認識を徹底して調べ上げようと、実に様々な手段と方法を開発する。しかもその際、チンパンジーは、客観的な研究対象を超えて、人間(ヒトというよりは)と同じ仲間として扱われ、結局は人間の相互理解にも繋がる知見を得ようとする。
学問的な出発点はまるで違うように見えるお二人が目指される道、他者に真似のできないようなユニークな二つの道の辿りつく先には、同じ風景があるのではないかと予想させる、知的興奮に溢れた対談集である。
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