選評

『鷺と雪』(文藝春秋)

  • 2017/07/08
鷺と雪  / 北村 薫
鷺と雪
  • 著者:北村 薫
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(285ページ)
  • 発売日:2011-10-07
  • ISBN-10:416758607X
  • ISBN-13:978-4167586072
内容紹介:
昭和十一年二月、運命の偶然が導く切なくて劇的な物語の幕切れ「鷺と雪」ほか、華族主人の失踪の謎を解く「不在の父」、補導され口をつぐむ良家の少年は夜中の上野で何をしたのかを探る「獅子と地下鉄」の三篇を収録した、昭和初期の上流階級を描くミステリ"ベッキーさん"シリーズ最終巻。第141回直木賞受賞作。

直木三十五賞(第一四一回)

受賞作=北村薫「鷺と雪」/他の候補作=西川美和「きのうの神さま」、貫井徳郎「乱反射」、葉室麟「秋月記」、万城目学「プリンセス・トヨトミ」、道尾秀介「鬼の跫音」/他の選考委員=浅田次郎、阿刀田高、五木寛之、北方謙三、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、宮部みゆき、渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇九年九月号

一つの達成

「この国には大阪国という、豊臣家の末裔を守るための独立国が以前より、別個存在する。このことは慶応四年四月六日の、太政官政府と大阪国の間で取り交わされた十カ条の条約からも明らか……」というのが『プリンセス・トヨトミ』(万城目学)の拵(こしら)えである。独立国家の中にもう一つ小国家があるという発想は魅力的だが、しかしこの壮大なホラを成立させるためには、あらゆる細部をいちいち、もっともらしいものに作り上げなければならない。本作ではその工夫が足りなかった。たとえば、太政官政府との間で取り交わされたという十カ条の条約、作者はどんなことをしてでも、その条文のすべてを読者の前に明示しなければならなかった。それなのに、〈太政官政府は大阪国を承認する、という項目から始まる“条約”の中身をすべて確認し、〉(二六〇頁)とあるだけで、それ以上のことは書かれていない。作者と登場人物がわかっていればそれでいいのだろうか。これでは読者はこのホラとはつきあえない。

プリンセス・トヨトミ  / 万城目 学
プリンセス・トヨトミ
  • 著者:万城目 学
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(554ページ)
  • 発売日:2011-04-08
  • ISBN-10:4167788020
  • ISBN-13:978-4167788025
内容紹介:
このことは誰も知らない-四百年の長きにわたる歴史の封印を解いたのは、東京から来た会計検査院の調査官三人と大阪下町育ちの少年少女だった。秘密の扉が開くとき、大阪が全停止する!?万城目ワールド真骨頂、驚天動地のエンターテインメント、ついに始動。特別エッセイ「なんだ坂、こんな坂、ときどき大阪」も巻末収録。

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くどいがもう一つ、豊臣家末裔の危機を聞きつけて〈大阪城に参集した男たちの総計は実に百二十万人を超えた。〉(四〇六頁)。それにもかかわらずこの大事件は大阪市以外に伝わらなかったという。作者は伝わらなかった理由をいろいろ並べ立てるが、みんな言い訳にすぎない。むしろ全国に伝わった方がいいのだ。いっそ、あの阪神タイガースさえもじつは大阪国の国立野球チームだったとでも大ホラを吹いて、その大ホラを無数の、まことしやかでもっともらしい細部で支えるぐらいの気組みと手練が必要だ。

語りで騙(かた)る――これが、六つの短篇を収めた『鬼の跫音』(道尾秀介)で、ほぼ一貫して採られている手法である。日記における時間の流れを逆行させたら読者を騙(だま)せるのではないか、決定的な事実を最後の最後に語るようにすれば読者を騙せるのではないかなど、才気あふれる語りが本作の魅力である。また、語りの工夫で巧みに時間を繋ぎ合わせる離れ業もみごとだが、しかし長所は短所と隣り合っていて、その語りによって明らかにされて行く物語の中身が、血糊(ちのり)一色で、いささか月並みである。語りの凄さ巧みさが中身を均一にしてしまったきらいがある。おしまいの一篇、人間を吸い取るキャンバスという奇抜なアイデアで展開する「悪意の顔」は、疑いもなく一個の佳品だが、この一篇では語りが読者を騙(かた)ろうとしていない。それで愛の哀しさがよく出たのかもしれない……とはいうものの、絢爛たる語りはこの作者の最強の武器、もっと柄(がら)の大きな物語で得意の武器を駆使していただきたいと願うばかりである。

鬼の跫音  / 道尾 秀介
鬼の跫音
  • 著者:道尾 秀介
  • 出版社:角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 装丁:文庫(232ページ)
  • 発売日:2011-11-25
  • ISBN-10:4041000122
  • ISBN-13:978-4041000120
内容紹介:
刑務所で作られた椅子に奇妙な文章が彫られていた。家族を惨殺した猟奇殺人犯が残した不可解な単語は哀しい事件の真相を示しており…(「〓(ケモノ)」)。同級生のひどい攻撃に怯えて毎日を送る僕… もっと読む
刑務所で作られた椅子に奇妙な文章が彫られていた。家族を惨殺した猟奇殺人犯が残した不可解な単語は哀しい事件の真相を示しており…(「〓(ケモノ)」)。同級生のひどい攻撃に怯えて毎日を送る僕は、ある女の人と出会う。彼女が持つ、何でも中に入れられる不思議なキャンバス。僕はその中に恐怖心を取って欲しいと頼むが…(「悪意の顔」)。心の「鬼」に捕らわれた男女が迎える予想外の終局とは。驚愕必至の衝撃作。

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歩道に倒れた一本の街路樹をめぐる悲喜劇の中から、普通の人々の無責任さや小狡(こずる)さをうまく抉(えぐ)り出したのが『乱反射』(貫井徳郎)である。自分勝手を押し通すが、それがひとたび波紋を引き起こすと、とたんに知らぬふりを決め込む人たち、自分さえよければと市民モラルを踏みにじっておいて、一向に責任を取ろうとしない人たちなど、普通に生活する人間の「罪と罰」を鋭く摘出する作者の力量にはたしかなものがある。けれども、作品のどの部分も均質、同じ密度で書いてあって、小説的なふくらみに欠け、通読すると少しばかり、のっぺらぼうの感があった。

乱反射  / 貫井徳郎
乱反射
  • 著者:貫井徳郎
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:文庫(600ページ)
  • 発売日:2011-11-04
  • ISBN-10:4022646381
  • ISBN-13:978-4022646385
内容紹介:
地方都市に住む幼児が、ある事故に巻き込まれる。原因の真相を追う新聞記者の父親が突き止めたのは、誰にでも心当たりのある、小さな罪の連鎖だった。決して法では裁けない「殺人」に、残された家族は沈黙するしかないのか?第63回日本推理作家協会賞受賞作。

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事あるたびに口を出してきては支藩の秋月藩を支配しようと悪く企(たくら)む本藩の福岡藩――『秋月記』(葉室麟)は、この両藩の凄惨な軋轢(あつれき)の中で、秋月藩の命運を担って苦心する一藩士の生涯を、綿密な資料考証を経(へ)ながらくっきりと浮かび上がらせた。とりわけこの藩士の、「逃げない男になりたい」と志してから藩政改革を成し遂げるまでの前半生は、文章は清潔、展開の速度も快(こころよ)く、たいへんな名作である。しかし藩政の黒幕となってからの彼には、その黒幕度が不足、記述もいったいに早足になって失速、おもしろさにも乏しくなった。清濁併せ呑むのが行政官の定めであるとすれば、「清」だけで終わってしまった感があって、前半が傑作だっただけに、惜しいとしかいいようがない。

秋月記  / 葉室 麟
秋月記
  • 著者:葉室 麟
  • 出版社:角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 装丁:文庫(361ページ)
  • 発売日:2011-12-22
  • ISBN-10:404100067X
  • ISBN-13:978-4041000670
内容紹介:
筑前の小藩・秋月藩で、専横を極める家老・宮崎織部への不満が高まっていた。間小四郎は、志を同じくする仲間の藩士たちとともに糾弾に立ち上がり、本藩・福岡藩の援助を得てその排除に成功す… もっと読む
筑前の小藩・秋月藩で、専横を極める家老・宮崎織部への不満が高まっていた。間小四郎は、志を同じくする仲間の藩士たちとともに糾弾に立ち上がり、本藩・福岡藩の援助を得てその排除に成功する。藩政の刷新に情熱を傾けようとする小四郎だったが、家老失脚の背後には福岡藩の策謀があり、いつしか仲間との絆も揺らぎ始めて、小四郎はひとり、捨て石となる決意を固めるが-。絶賛を浴びた時代小説の傑作、待望の文庫化。

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『きのうの神さま』(西川美和)に収められた五篇には、際立った特色が二つある。一つは、五篇とも、病気を通して人間の心の底を覗き込むことを生業(なりわい)にしている医師を登場させたこと。もう一つは、これまでの小説の約束をかすかに脱関節化していること――脱関節化が熟さない言い方とするなら、定法ずらしとでも言えばよいか。たとえば最初の短篇「1983年のほたる」の劈頭の一行、〈今、何か言った気がする。〉で、だれが何を言ったのかがはっきりするのは十五頁もあとの〈「りつ子さん」/今度ははっきりと、そう聞こえた。〉まで、待たねばならない。読者はお約束通りに情報が入ってこないのでイライラするが、その分だけなにか清新なものにふれた感じを受けるからふしぎだ。主人公に名前のないこともあれば、過去と現在とが勝手に入り交じったりもして、たしかにつんのめりながら読まねばならないが、それが魅力にもなっているところは、作者に物語を語る才能があるからだろう。その才能を十分に買った上で言えば、せっかく医師を登場させながら、人間の生命や魂の奥底に「ねじ込む力」が少し弱い。そこがやはり惜しい。すてきなスケッチやエピソードをうんと撚(よ)り上げて、芯のある物語を創ることができれば、優れた書き手になるはずだ。

きのうの神さま  / 西川美和
きのうの神さま
  • 著者:西川美和
  • 出版社:ポプラ社
  • 装丁:文庫(224ページ)
  • 発売日:2012-08-07
  • ISBN-10:4591130428
  • ISBN-13:978-4591130421
内容紹介:
村からただ一人、町の塾へ通っているりつ子は、乗っていた路線バスの運転手・一之瀬から突然名前を呼ばれ戸惑う。りつ子は一之瀬のある事実を知っていた(「1983年のほたる」)。人の闇の深さや業を独自の筆致で丹念に描き出し、直木賞候補になった傑作が待望の文庫化。

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局番ちがいの間違い電話――こんな安易な手はほかにないが、『鷺と雪』(北村薫)では、この手が、二度と逢うことがないはずの反乱軍の青年将校と良家令嬢の、この世で一度の魂の通い道になる。人間の日常生活に一瞬、立ちあらわれる厳しい歴史の断面を、一本の間違い電話が読者の前にありありと示すのだ。見えないものを見えるようにするのが、詩や劇や絵や小説など芸術本来の働きであるとすれば、周到に書かれたこの場面こそは、まさにその芸術の達成そのものと言ってよいだろう。

【この選評が収録されている書籍】
井上ひさし全選評 / 井上 ひさし
井上ひさし全選評
  • 著者:井上 ひさし
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(821ページ)
  • 発売日:2010-02-01
  • ISBN-10:4560080380
  • ISBN-13:978-4560080382
内容紹介:
2009年までの36年間、延べ370余にわたる選考会に出席。白熱の全選評が浮き彫りにする、文学・演劇の新たな成果。

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鷺と雪  / 北村 薫
鷺と雪
  • 著者:北村 薫
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(285ページ)
  • 発売日:2011-10-07
  • ISBN-10:416758607X
  • ISBN-13:978-4167586072
内容紹介:
昭和十一年二月、運命の偶然が導く切なくて劇的な物語の幕切れ「鷺と雪」ほか、華族主人の失踪の謎を解く「不在の父」、補導され口をつぐむ良家の少年は夜中の上野で何をしたのかを探る「獅子と地下鉄」の三篇を収録した、昭和初期の上流階級を描くミステリ"ベッキーさん"シリーズ最終巻。第141回直木賞受賞作。

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初出メディア

オール讀物

オール讀物 2009年9月

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