書評

『ハイウェイとゴミ溜め』(新潮社)

  • 2022/06/28
ハイウェイとゴミ溜め / ジュノ・ディアズ
ハイウェイとゴミ溜め
  • 著者:ジュノ・ディアズ
  • 翻訳:江口 研一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:1998-07-01
  • ISBN-10:4105900048
  • ISBN-13:978-4105900045
内容紹介:
ドミニカの田舎での退屈な夏休み。伝説のマスク怪人を追うボクとアニキの冒険「イスラエル」。キレた女の子オーロラがボクに求めたものはドラッグだったのかセックスだったのか、それとも…。N.Y.の路上に生まれたラブ・ストーリー「オーロラ」。魔術的リアリズムと現代都市文学を見事に融合した自伝的作品10編。

世界のどこにも属さない言葉

アメリカで最も期待されているという新進作家の処女作である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆年は1998年)。すさんだスラムの日々と、著者のルーツであるドミニカの記憶とが、波のように交互に押しよせたり引いたりしながら、ストリート口調で淡々と描かれるのだが、その語りは何重にも屈折している。

冒頭のエピグラフにそれはまず現れる。「あなたにこうして英語で書いていること自体、本当に伝えたかったことを既に裏切っている。わたしの伝えたかったこと、それはわたしが英語の世界に属さないこと、それどころか、どこにも属していないこと」という、アメリカに住むキューバ人詩人の言葉が掲げられているのだ。つまり、これから読者の読む言葉は、どれほど滑らかなスラング混じりの英語のセリフであろうと、それはストリートの言葉を後から模倣したものであり、ディアズにとっては借り物だということだ。では、借り物でない本当の言葉が彼にあるのかといえば、そうではない。彼が生まれ七歳まで育ったドミニカ共和国のスペイン語も、すでに彼の言語ではない。インタビューによると、ディアズはアメリカに移住後、少年期にはスぺイン語を否定し、話すのをやめていたという。言葉を葬ることで過去も葬り、「アメリカ」の人間になりきろうとしたのである。しかし、もちろん過去の記憶を葬ることはできない。

最初の短篇「イスラエル」は、主人公ユニオールが、まだドミニカにいた九歳のときの思い出である。「ボク」は兄のラファと、近所で噂のイスラエルを見に行こうとする。イスラエルとは、「赤ん坊の頃に、ブタに顔面を喰いつかれて、オレンジの皮を剥いたように全てが剥き出しになった」ため、いつも覆面をかぶっている少年のことだ。そのすさまじい素顔を力ずくで見るまでの冒険が、輪郭のくっきりしたみずみずしさで描かれるのだが、その語りが意識しているのは、ほんの四行しか触れられていない父親と、アメリカの存在である。二人の父親は、六年前に単身、ニューヨークへ出稼ぎに行ったまま、帰ってこない。イスラエルの父親もアメリカに行っているが、こちらは成功しているらしく、イスラエルの顔の手術をアメリカで受けさせるという。覆面をはぎ取った後、ユニオールが「アメリカならきっと治るよ」とつぶやくと、ラファは顔をこわばらせ「あいつらには何もできないんだよ」と答える。

こうして、恐る恐る父親とアメリカに近づくことで、ディアズはスペイン語を葬っても消えることのなかった記憶を、英語で書き始める。もはやどの言語も彼にとっては当たり前の存在ではない以上、言葉が自分の外にあるという感覚と格闘しながら、記憶を再構成しようとするのだ。そして、続く短篇で、移民後の「ボク」の周辺の不毛で貧しい生活を、ドミニカの日々を織り交ぜて何度も語り直すうち、語りは「ボク」を離れ始める。

最後から二つ目の作品「のっぺらぼう」では、語りが突如「カレは」と三人称になる。「カレ」とは、たぶんイスラエルである。はっきりとは示されていないが、語り手はユニオールであり、彼はイスラエル自身になりきるようにして、「ボク」の外にある一個の謎でしかなかったイスラエルの内側を、語り始める。その口調は、「ボク」をめぐっていたときの突き放した調子から、水の中をガラスで透かし見るように静かで透明でアイロニーのないものに変わる。ディアズは外部である言葉を語り続け、その中を泳いでいくうち、外部である言葉を共有する他の者たちとつながってしまったのだ。

最後の短篇「ビジネス」では、この語りはとうとう、その最も奥底から求めてやまなかった父親、ラモンにたどり着く。語り手ユニオールは、外部の言葉によって彼とつながったラモン自身の、肌から頭の中にいたるまで、あらゆる感覚と記憶をたどり直すことによって、父になりきる。ラモンが単身で渡米し、アメリカ国籍を得るために悪戦苦闘し、女に溺れ、孤独にさいなまれながら、体に感じ続けたに違いない一瞬一瞬の感覚が、繊細で透き通った文体により直接文字の上に甦るさまは、奇跡的ですらある。

ディアズは、自分の言葉を疑うことで、自分の周りの者たちへとなり変わっていった。その語りにはもはや、彼の父親だけでなく、外部の言葉を語らざるを得ないドミニカ人移民全体や、言葉を失いつつある世界の孤独な者たちの声が重なっている。世界には文学を必要とする者が、まだ存在している。
ハイウェイとゴミ溜め / ジュノ・ディアズ
ハイウェイとゴミ溜め
  • 著者:ジュノ・ディアズ
  • 翻訳:江口 研一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:1998-07-01
  • ISBN-10:4105900048
  • ISBN-13:978-4105900045
内容紹介:
ドミニカの田舎での退屈な夏休み。伝説のマスク怪人を追うボクとアニキの冒険「イスラエル」。キレた女の子オーロラがボクに求めたものはドラッグだったのかセックスだったのか、それとも…。N.Y.の路上に生まれたラブ・ストーリー「オーロラ」。魔術的リアリズムと現代都市文学を見事に融合した自伝的作品10編。

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初出メディア

波

波 1998年7月号

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