書評
『もうひとつの街』(河出書房新社)
無意識の王国へさまよいだす
しばらく前からひとつの噂が囁かれているようだ。1冊の不思議な本がいま書店の棚で息を潜めている。収められた言葉が読者の視線に触れるときに生じるあまりの快楽と衝撃ゆえに、慎み深い小動物にも似たこの本は我々の指に触れるのをあえて避けるかのようだ、と。
遠い異国に憧れやまぬ存在である我々は、この本をチェコの都プラハをめぐるものだと思い、手に取り、開く。そのときかすかに本が震えたのは気のせい? ページから放たれるこの淡い緑味を帯びた光は目の錯覚?
実際、この本の語り手と同様、我々ははじめ目を疑うだろう。視界に立ち現れてくるのは、プラハ城やカレル橋など確かに〈あのプラハ〉だ。しかしそうした光景を描いているはずの文字が、異教の神々を祀る祭典で奉納されるにふさわしい官能的な舞踏を踊り出す。言葉はもはや外側から対象を記述するのに倦んで、対象の内部に、そして我々の視線の片隅に隠されていた思いも寄らぬ空間を次々と明らかにする。
カレル橋を飾る聖人たちの彫像の内部に家畜小屋やバーが現れ、サメやエイが空を舞い、ベッドシーツが平原や山脈となり、図書館の奥にジャングルが現れる。
当然、物語もまた単なる物語だけにとどまることはできず、言葉はときに詩に、ときに絵画となり音楽となりながら、あらゆる事物の、そして読む我々自身の意識の輪郭を曖昧にしていく。ちょうど列車に揺られて眠りに落ちていきながら、暗い夜の支配する無意識の王国へと我々が束の間彷徨い出すときのように。
本書を読む我々を包むのは多幸感に満ちた夢なのか、それとも永遠に繰り返される悪夢なのか。はっと目を覚まし顔を上げるとき、本書を膝に開いた我々が乗っているのは、「もうひとつの街」へと人々を運び去る、あの緑色の路面電車なのかもしれない。
朝日新聞 2013年05月05日
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