書評

『シブヤで目覚めて』(河出書房新社)

  • 2021/09/24
シブヤで目覚めて / アンナ・ツィマ
シブヤで目覚めて
  • 著者:アンナ・ツィマ
  • 翻訳:阿部 賢一,須藤 輝彦
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(384ページ)
  • 発売日:2021-04-24
  • ISBN-10:4309208266
  • ISBN-13:978-4309208268
内容紹介:
プラハで日本文学を学ぶヤナと、透明になって渋谷を彷徨うヤナの「分身」。ふたつの物語が街をつなぐ、新世代幻想ジャパネスク小説!

「翻訳」仕掛け、言葉の虚構、幾重にも

じつに刺激的で痛快なチェコ小説が翻訳された。失われた日本近代文学を探すミステリであり、ラブコメであり、分身小説であり、入れ子状の「虚構内虚構小説」であり、翻訳小説でもある。翻訳小説とは、邦訳された小説という意味ではない。翻訳作業そのものを描く小説であり、その訳文が小説の一部を組成する小説であり、翻訳を通して何度も生まれなおす小説という意味だ。

主人公は、プラハの大学で日本文学を専攻する「ヤナ・クプコヴァー」という日本フリークの女子学生と、シブヤの街に幽霊として閉じこめられてしまうもう一人のヤナ。十七歳で日本に遊びにきた際、日本を思うあまり、二人に分裂してしまったのだ。プラハに戻ったヤナはそれを知らない。

子どもの頃から父親に文学的英才教育を受けたヤナは周りになじめず、そんな孤独のなかで出会ったのが村上春樹だ。『アフターダーク』の翻訳書に夢中になり、春樹風の小説などを書くに至る(このあたりには作者の実体験が反映されている。ヤナはアンナの分身でもある)。

ヤナ作の春樹風小説は、それを文体模倣する訳者の技が巧みで爆笑してしまった。ここにはすでに、本書が何重もの意味で翻訳小説であることを示されているだろう。村上春樹のチェコ語版を読んだ少女が、春樹をチェコ語に訳したような小説を書き、それがまた春樹流の日本語にあたかも「訳し戻されて」いる風なのだ。翻訳を通した文学の遙かなる循環。事実、二人のヤナのパートが交替する本作の二部構成は、村上の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を思わせる。

日本のアニメ、マンガ、三船敏郎にはまった後、ヤナが本当にのめりこむのは、大正・昭和期に数作を発表しただけの「川下清丸(かわしたきよまる)」という無名作家だ。横光利一や川端康成と親交があったという。ヤナが最初に読んだ「分裂」は、作家がある事件の取材を諦めることになり、しかしその思いは事件から離れられず、いつまでも現地をさまようという話だ。魂の乖離を主題にしている。

これと「似たようなこと」は自分にもあると、ヤナが述懐するのが皮肉である。実際、そのころ彼女の半身は強い「思い」となってシブヤを流離(さすら)っているのだから。ヤナと川下の主人公も分身関係にあるだろう。

さて、大学院で川下作品の翻訳と研究に没頭するヤナのもとに、強力な味方が登場する。「ヴィクトル・クリーマ」という日本学博士課程の超秀才。つねに上から目線で、若干「S」の気のある長身男子と、夢見がちでいささかドジな研究女子が、喧嘩まじりに協力しあううちに恋が芽生えて……という展開やセリフは日本の少女マンガへのオマージュにも見える。ふたりは川下の自伝的短編「恋人」と随筆「揺れる想い出」を翻訳/共訳していく。

「揺れる想い出」で、関東大震災に見舞われた焦土東京を描写する川下清丸の筆致は、圧巻のひと言だ。いま思わず、「川下清丸の筆致」と書いてしまったが、もちろん、翻訳者になりすまして執筆したのはアンナ・ツィマである。いや、日本語版においてそれを日本近代文学風に「訳し戻し」ているのは、阿部賢一であるが、こうした複層的な翻訳過程を忘れてしまう「透明な翻訳」といえる。

そう、本書は魅惑的な「矛盾」と「擬態」の書なのだ。舞台の四割弱は日本であり、日本語を話す人々が出てくる。また、全編の何分の一かは日本文学からの引用が占めており、この部分は「大正ごろの日本語」で書かれている(はずだ)。とはいえ、チェコ語原作の読者が読んだのは、チェコ語で書かれたテクストだけだろう。これらの引用部分は、架空の日本語を「翻訳」したような偽装をしているからだ。その一方、日本語版訳書(本書)の読者が目にするのは、ときに流麗、荘重、ポップな名調子で書かれた日本語文だけである。

当たり前じゃないかと言われるかもしれないが、「虚構内で話され・書かれている言葉」と、読者が目にする「文字テクストに刻まれた言葉」が、じつはまったく違うものであることを、本書は翻訳という装置を通して鮮やかに示しているだろう。たとえば、『戦争と平和』の物語内ではロシア語とフランス語が話されている設定だが、トルストイは場合により、全文をロシア語で書いてから、「と、フランス語で言った」と付記したりする。さらに、それが日本語版では、日本語のみで構成されることになる。作品が暗示的/明示的にはらむ内的な翻訳、および作品そのものが被(こうむ)る外的な翻訳の過程では、こういう矛盾的な擬態がしばしば起きているのだ。

本書においては、ヤナやクリーマだけでなく、菊池寛も関川夏央も高橋源一郎もそのなかで生きなおす。ヤナたちのように共訳を行った訳者ふたりも実人生と虚構内の生を生き重ねたのではないか。「世界文学とは、翻訳を通じていっそう豊かさを増す作品群のことだ」という比較文学者ダムロッシュの有名な定義を記しておきたい。
シブヤで目覚めて / アンナ・ツィマ
シブヤで目覚めて
  • 著者:アンナ・ツィマ
  • 翻訳:阿部 賢一,須藤 輝彦
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(384ページ)
  • 発売日:2021-04-24
  • ISBN-10:4309208266
  • ISBN-13:978-4309208268
内容紹介:
プラハで日本文学を学ぶヤナと、透明になって渋谷を彷徨うヤナの「分身」。ふたつの物語が街をつなぐ、新世代幻想ジャパネスク小説!

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毎日新聞 2021年5月8日

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