これ、読んでどうなるのか
『書をステディー町へレディゴー』。このタイトルを見た瞬間に、評者は本屋へレディゴーした、というのはもちろんウソである。実際には、本屋でぶらぶらしているときにひょいと見つけ、すぐレジに持っていった。「ロック漫筆家」と自称する安田謙一の文章は、初の評論集というかスクラップブック『ピントがボケる音』のときから大好物であり、セカンド・アルバム『なんとかとなんとかがいたなんとかズ』も、妙な神戸案内の『神戸、書いてどうなるのか』も愛読書になっている。そういうわけで、なにも考えずに『書をステディー町へレディゴー』も買ってしまい、さっそく喫茶店でのんびりしながらページをめくった。安田謙一が書く「ロック漫筆」は、限られた字数のなかで、異常に情報量の多いものから、漫筆にふさわしくユルいものまでさまざまだが、雑誌『CDジャーナル』に連載された漫画家辻井タカヒロとのコラボによるコラム102回分を集めた本書は、そのなかでももっともユルいものに属するだろう。世の中にユルいエッセイはそれこそ掃いて捨てるほどある。そして、そのほとんどは、あきれるくらいにありきたりな観察や意見をまぶしてある作文にすぎない。しかし、安田謙一のロック漫筆は、そうしたありきたりなユルユル本とは一線を画していて、言葉が矛盾しているようだが、鍛えの入ったユルさなのである。
朝一番に映画館で観た、にっかつロマンポルノ回顧上映の話。古本屋の1冊百円棚で買った、三味線豊吉の『三味線隨筆』の話。ネット通販で海外から購入した、70年代のソビエト・ポップ歌手コーラ・ベルディの怪ヒット作「ツンドラに連れて行きます」の話。これ、読んでどうなるのか、と思わず言いたくなるようなレアな話題の数々が、平日に近所の公営プールで泳いだり浮かんだりしているうちに、そこが死後の世界に見えてくるといった日常生活のひとこまのなかに紛れ込み、自由自在な連想でつながる。カッパエビセンを口のなかに放り込むようにそういった文章を賞味していると、読者もついつい誘い込まれて、そう言えば井上陽水の「川に浮かんだプールでひと泳ぎ」というフレーズには、川=三途の川という解釈もあったなあとあらぬ空想を始めてしまえば、もうそこは安田謙一の世界である。
雑多なジャンルを勝手気ままに横断するひとつの芸は、本書のタイトルにも見られるモジリで、コラムのタイトルだけを拾っても、「ヘイ!自由度」「男はつらいぜよ」「モーもじり娘。」「で・じゃ・ぶーマイフレンド」「おTOMMYさん」「きけ ふくろとじのこえ」「21世紀の貸本」「旧ソ猫を噛むロック」などなど、やりたい放題だ。おまけに巻末には、「ポールがジョージにジョンずにリンゴの絵を描いた」というボーナス・トラックまで付いている。思えば関西には、「小津の魔法使い」という見出しが躍るスポーツ紙を阪神半疑の目で眺める文化が存在していたわけで、安田謙一はいかにも生粋の関西人だと映る。モジリの兄貴分、といったら怒られるか。
本を読んだり、映画を観たり、テレビを観たり、レコードを聴いたりするのは、なにも特殊なことではない。それは甲子園で酒を呑みながらナイターを観たり、かき氷を食べたり、温泉につかったり、といった日常の生活とまったく区別がない。だから読者も、これ、読んでどうなるのか、と心配する必要はない。『書をステディー町へレディゴー』は、それでいいのだ、と天才バカボンのパパのように、力強くはないがユルく肯定してくれるだろう。