書評
『彼女は長い間猫に話しかけた』(マドラ出版)
どうせまたスルーしちゃうんでしょ、純文学リーグはこういう傑作を。糸井重里が『家族解散』を、いとうせいこうが『ノーライフキング』を、そして最近では松尾スズキが『宗教が往く』を発表した時、大抵の純文系批評家は見事に無視してきたものなんである。「文學界」「新潮」「群像」「文藝」「すばる」の五大文芸誌に発表された作品と、文藝春秋・新潮社・講談社みたいな大手文芸出版社から出た単行本以外は、文学じゃないとでも思ってるのかね。そんなことだから、舞城王太郎の発見も遅れたんだっちゅーの。
というわけで――。川崎徹の中短篇集『彼女は長い間猫に話しかけた』。この表題作を、帯に推薦文を寄せている高橋源一郎以外の誰がちゃんと批評するのか、興味津々なんである。
これは、ヒットCMのディレクターである著者本人を思わせる〈わたし〉が、死の床についている老父を看取る、その数日間の出来事を綴っている“ただそれだけ”の小説だ。医師との命の瀬戸際をめぐるシビアなやりとりこそあれど、波瀾万丈のストーリー展開があるわけでもなく、読む者の涙を誘う父子の劇的なドラマが横たわっているわけでもない。生から死へと少しずつ変位することで在りようを変えていく父親の、〈「自分」と「自分以外」の境界が曖昧になって、両者が融合し始め〉〈彼を彼たらしめていた人形(ひとがた)の境界線は、八十七年間の役割を終え消滅しつつ〉ある、その様をじっと見つめている〈わたし〉の意識の流れを、大仰に謳い上げるのとは真逆の、清閑と美しい日本語で記録した“ただそれだけ”の小説なのである。
しかし、白血病で死ぬ少女との純愛だの、雨の日に帰ってくる死んだはずの愛妻だの、その手のわかりやすい“お話”に慣れた身に、この小説の“ただそれだけ”がどれほど衝撃的か。どれほど豊かに感じられるか。手垢にまみれていないプロットや感情や言葉を一切用いず書かれた小説の、底知れない力を再認識させられる一篇なのだ。
生者には語り得ない死。この作品は、しかし、その圧倒的な不可能を前にしても自然体を崩さない。〈死んだことと、生きていないことを、イコールで結べない〉語り手は、死に瀕している父を前に、子供の頃おっかなくて仕方なかった、近所に住む〈オニババア〉のことを思い出す。オニババア宅に隣接する空き地に積み上げられた古タイヤの山。そこにもぐりこみ、暗闇の中で〈いまこの時自分はここにいてここ以外のどこにもいない〉〈濃い自分を意識〉することで、〈いまこの時、自分の存在しない家の中の光景〉へと想像を発展させ、〈自分がいなくなる、死ぬとはこんなことかと〉漠然とイメージするのだが、しかし、雷のようなオニババアの怒声が、〈わたし〉を一気に現実に引き戻す。下駄が割れるほど地面をけりながら、悪ガキたちを追いかけるオニババア。しかし、〈わたし〉は自分しかおそらく知らないであろう、オニババアの別の貌(かお)も思い出す――。
血圧や心拍数がデジタル表示される計測装置につながれて、生きているという徴候においては少しずつゼロの存在になっていく父を見守りながら、八年前に亡くなった母のこと、ほんの三日前までは元気だった父と交わした会話、幼い日に目撃したオニババアのあるエピソード、〈わたし〉の意識はあちこちに彷徨(さまよ)う。その彷徨の軌跡が時に、生者には語り得ぬはずの死の際にふいに接近する。凡百のサスペンス小説など足下にも及ばないスリルが、この長くはない小説の中にあるのだ。
小説は言語の芸術だ。しかし、あれもこれもと詰め込んで、何もかもを言語化しようとする貪欲さは、逆に何も語り得ない愚をもたらす。粗筋を説明しようとする時“ただそれだけ”としか云いようにない、語り尽くさず、謳い上げない小説だけが持つ言葉の隙間。その豊かさと贅沢さを再認識させてくれる、これは大変な、大変な大変な傑作なのである。たとえ、純文学リーグの批評家が全員無視しようとも。
【この書評が収録されている書籍】
というわけで――。川崎徹の中短篇集『彼女は長い間猫に話しかけた』。この表題作を、帯に推薦文を寄せている高橋源一郎以外の誰がちゃんと批評するのか、興味津々なんである。
これは、ヒットCMのディレクターである著者本人を思わせる〈わたし〉が、死の床についている老父を看取る、その数日間の出来事を綴っている“ただそれだけ”の小説だ。医師との命の瀬戸際をめぐるシビアなやりとりこそあれど、波瀾万丈のストーリー展開があるわけでもなく、読む者の涙を誘う父子の劇的なドラマが横たわっているわけでもない。生から死へと少しずつ変位することで在りようを変えていく父親の、〈「自分」と「自分以外」の境界が曖昧になって、両者が融合し始め〉〈彼を彼たらしめていた人形(ひとがた)の境界線は、八十七年間の役割を終え消滅しつつ〉ある、その様をじっと見つめている〈わたし〉の意識の流れを、大仰に謳い上げるのとは真逆の、清閑と美しい日本語で記録した“ただそれだけ”の小説なのである。
しかし、白血病で死ぬ少女との純愛だの、雨の日に帰ってくる死んだはずの愛妻だの、その手のわかりやすい“お話”に慣れた身に、この小説の“ただそれだけ”がどれほど衝撃的か。どれほど豊かに感じられるか。手垢にまみれていないプロットや感情や言葉を一切用いず書かれた小説の、底知れない力を再認識させられる一篇なのだ。
生者には語り得ない死。この作品は、しかし、その圧倒的な不可能を前にしても自然体を崩さない。〈死んだことと、生きていないことを、イコールで結べない〉語り手は、死に瀕している父を前に、子供の頃おっかなくて仕方なかった、近所に住む〈オニババア〉のことを思い出す。オニババア宅に隣接する空き地に積み上げられた古タイヤの山。そこにもぐりこみ、暗闇の中で〈いまこの時自分はここにいてここ以外のどこにもいない〉〈濃い自分を意識〉することで、〈いまこの時、自分の存在しない家の中の光景〉へと想像を発展させ、〈自分がいなくなる、死ぬとはこんなことかと〉漠然とイメージするのだが、しかし、雷のようなオニババアの怒声が、〈わたし〉を一気に現実に引き戻す。下駄が割れるほど地面をけりながら、悪ガキたちを追いかけるオニババア。しかし、〈わたし〉は自分しかおそらく知らないであろう、オニババアの別の貌(かお)も思い出す――。
血圧や心拍数がデジタル表示される計測装置につながれて、生きているという徴候においては少しずつゼロの存在になっていく父を見守りながら、八年前に亡くなった母のこと、ほんの三日前までは元気だった父と交わした会話、幼い日に目撃したオニババアのあるエピソード、〈わたし〉の意識はあちこちに彷徨(さまよ)う。その彷徨の軌跡が時に、生者には語り得ぬはずの死の際にふいに接近する。凡百のサスペンス小説など足下にも及ばないスリルが、この長くはない小説の中にあるのだ。
小説は言語の芸術だ。しかし、あれもこれもと詰め込んで、何もかもを言語化しようとする貪欲さは、逆に何も語り得ない愚をもたらす。粗筋を説明しようとする時“ただそれだけ”としか云いようにない、語り尽くさず、謳い上げない小説だけが持つ言葉の隙間。その豊かさと贅沢さを再認識させてくれる、これは大変な、大変な大変な傑作なのである。たとえ、純文学リーグの批評家が全員無視しようとも。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

Invitation(終刊) 2005年9月号
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