書評

『世界認識の臨界へ』(深夜叢書社)

  • 2023/03/30
世界認識の臨界へ / 吉本 隆明
世界認識の臨界へ
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:深夜叢書社
  • 装丁:単行本(318ページ)
  • 発売日:2003-04-01
  • ISBN-10:4880320005
  • ISBN-13:978-4880320007
臨界点とは、辞書によれば、物質に或るエネルギーや運動が持続的に加えられた場合、それが異質の状態、たとえば固体から液体へ、液体から気体へと変化する不連続の一点を言い、その状態を臨界と言うのである。最近では原子炉が運転をはじめ、核の内部に蔵われていたエネルギーが熱に、そして熱から電気に変換される直前の状態を指すことが多い。

吉本隆明の対談集が『世界認識の臨界へ』と題されているのは、彼の思想的営為が長期にわたって持続されてきたこと、この本の対談者・インタビュアーが全力で、現代という名の原子炉が造り出したエネルギーで吉本隆明と取組んでいることの喩と言うことができよう。対話者が詩人であり、思想家であり、クリエーターであること、媒体がいわゆるマスコミではないことも、この対話集の性格を保証しているように思われる。

正津勉と〝都市と詩〟について語るなかで、吉本は今日の詩人の生き方としては「下りてしまうか、意識して現代に出会い続けるか」の二つしかないと指摘している。彼は〝教養派〟〝啓蒙家〟と真の詩人とを截然と区別する。或る角度からにせよ東京という得体のしれない都市を捉えるには「死のイメージしかない」と語り、意図してモチーフを持って捉えようとすると「ジョイスがダブリンの街を描いたくらいの力技が必要」と言う正津勉に同意する。こうした話の後で、珍しく彼は自らの原風景、東京の月島・佃島界隈の下町・路地の遊び場について述べ、このような原風景と「固有時との対話」「転位のための十篇」の関係について語っている。

分りあえる詩人との対話という心の弾みは続いて彼の米沢高等工業(旧制)時代、東洋インキへの就職、特許事務所の頃、そして安保闘争の頃へと導く。おそらくこの対談は、彼が自らに言及したなかでは最も自由に、率直に語ったものではないか。

そうして、このような〝知の考古学〟的な作業の後で、〝大衆社会におけるエクリチュールの運命〟(西谷修との対談)、〝現代における言葉のアポリア〟、表題ともなった〝世界認識の臨界へ〟を読むと、彼の思想の系譜が、今まで以上に鮮やかに見えてくることに驚かされる。

ブランショの作品を素材にした西谷修との対談のなかで、吉本は「現代の作家は言葉の自己表出の水準で自分の個性を消すべきか生かすべきかについて」、つまり現代において否定の意識を媒介とすることの重要性について語る。そこでは、ブランショ的な方法論への距離を保ちつつ、彼は己を語っているように見える。共同体を巡る論議では、アジア的共同体体験をふまえた吉本と西欧的土壌から「明かしえぬ共同体」「恋人達の共同体」を書いたブランショの思考との差異が明らかになる。そこにはヘーゲリアンと〈非―知〉に向っての寂やかなる着地を目指す吉本との思想の個性の対照が見られる。そうして、この二人に共通しているのは、現代において知識人であることの、また常に大衆であろうとする意志的努力の、困難さについての認識である。

このような認識は、いきおい吉本を現代における言葉のアポリアへ、そして世界認識の臨界へと導く。彼は、今日の世界の困難を、「国家だけは古い民族国家のまま存続して、管理機構として絶対化しながら、社会だけを変えようとしてきた」ところに見ている。近代国家は理論的、現実的に崩壊の臨界に近付いているのである。そうした情況のなかでは「国家が軍隊を持たないこと」の意味が具体的な論点となり得る。中條聡との対話のなかで吉本は、無意識の部分の荒廃を支えるために必要であった垂直性について語り、「統御できない無意識が荒れていない」若者を肯定的に見ていることを隠さない。彼はマルクス主義は死にマルクスは死後の世界まで出ていけるのではないか、と述べる。

この「永遠性と新しさ―現代において名文とは何か?」を含む七つの対談集は思想家であることと詩人であることが呼応している、我が国では稀な存在である吉本隆明が、常に現代に在るという意志的な営為のなかで、新しい臨界点に近付きつつあることを証しているように思われる。
世界認識の臨界へ / 吉本 隆明
世界認識の臨界へ
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:深夜叢書社
  • 装丁:単行本(318ページ)
  • 発売日:2003-04-01
  • ISBN-10:4880320005
  • ISBN-13:978-4880320007

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初出メディア

週刊読書人

週刊読書人 1994年1月14日

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