21世紀米文学の困難
最近の「アメリカ文学」の動向に注目してこなかった読者は、著者がこの本の中で描き出してみせる二十一世紀の「アメリカ文学」の様相に驚きを禁じえないだろう。何より、そこで主役となっている作家たちが、中南米やバルカン半島、アジア、旧ソ連などアメリカ合衆国以外の場所で生まれて、それぞれの故郷の「荒れ地」化した現実を逃れて移り住んできた人たちだからだ。しかも、先行する世代の移民の作者たちが、それぞれの民族性を背景にした移民の物語をそれぞれの母語を想像力の中心にすえて書いていたのに対して、現代の作者たちは、その移民性の呪縛からも解き放たれ、第二、第三言語として身につけた英語の中に「違和感」を持ちこみつつ、どことも定義できない幻想的な「荒れ地」世界を描き出しているのが特徴だという。アメリカ合衆国じたいがもはや希望に満ちあふれた国として誰にもとらえることができなくなっていることもあり、こうして二十一世紀のアメリカ文学は、アメリカの夢や希望、失望をリアリズム的に描き出すという文学的使命から初めて解き放たれたのだとわかってくる。
一方で当然、このような作家たちの書くものを「アメリカ文学」と呼ぶのが適切なのかという疑問も生じるわけで、国家名を冠して文学を国別にとらえる考え方がすでに世界の実情に合わなくなっていることは間違いない。人のアイデンティティすらが国単位で分かれるものでなくなっていることを著者も述べるのだが、そのような現実の中で、それでもなおも「アメリカ文学」という呼び方を使わざるをえない「アメリカ文学者」の困難も浮き彫りになってくる。英語で書かれてアメリカ合衆国で出版された作品であればどれでも「アメリカ文学」に包摂して扱うのは、やはり文化的・学問的な帝国主義でもあると考えてしまうのは、僕が「もうひとつのアメリカ」(ラテンアメリカ)を専門分野としているからだろうか。