書評
『マンガは欲望する』(筑摩書房)
吹き出しや絵の手法を縦横に分析
最近のマンガ研究は勢いがある。若い学問領域だけに、新しい成果を生む潜在力が大きいのだ。本書はマンガというメディアの特性を分析しつつ、近代からポストモダンへの移行という大きな思想的課題にも果敢に挑んでいる。例えば、マンガには二種類の吹き出しがある。風船のようなやつと、雲のようなふわふわの線で描かれるやつである。前者は実際に発話された言葉、後者は登場人物が内心で考えた言葉を表している。誰でも知っているマンガの約束だが、この区別を確立した里程標的な作品は手塚治虫の『罪と罰』(1953年)だという。それ以前の日本のマンガでは、発話された言葉と内心の言葉がそんなふうに明確には区別されていなかった。
それでは、この区別によって何が表現されたか。それは外的な言葉と内的な世界の区別、外に出された言葉は分かるが、内面は分からないということだ。いい換えれば、人間は自分の考えしか分からない。つまり、風船形吹き出しと雲形吹き出しの区別は、自我の明証性と他者の不透明性という、近代文学を特徴づける考えがマンガにも刻印されたことを意味している。
これだけでも非常に興味深い指摘だが、著者の考察はさらに先に進む。80年代後半ころから、吹き出しの風船形と雲形の区別は急速に曖昧になっている。つまり、近代が終わり、ポストモダンの時代に入るとともに、内面と外面、私と他者の対立が稀薄になっているということだ。確たる近代的内面に代わって、複数の声が自己のなかで対話するような分裂的主体が有力になっているらしい。
以上はマンガの言葉の話だが、絵についても、著者が杉浦茂の作品を例に巧みに説明しているように、マンガは一人称の視点や遠近法的視角の統一を土足で踏みにじる分裂的な表現力を発揮する。
そうしたマンガのハイブリッドな特質が、乙女ちっくマンガや少年愛や「妹萌え」など様々なテーマを契機に、さらに縦横に分析されていく。改めてこう叫びたくなること請け合いだ。マンガ、すごいじゃないか!と。
朝日新聞 2006年09月17日
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