自著解説

『戦国大名北条氏の歴史: 小田原開府五百年のあゆみ』(吉川弘文館)

  • 2020/08/11
戦国大名北条氏の歴史: 小田原開府五百年のあゆみ /
戦国大名北条氏の歴史: 小田原開府五百年のあゆみ
  • 編集:小田原城総合管理事務所
  • 監修:小和田 哲男
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(226ページ)
  • 発売日:2019-12-05
  • ISBN-10:4642083677
  • ISBN-13:978-4642083676
内容紹介:
宗瑞(早雲)の登場から、氏康~氏直期の周辺国との抗争・同盟、大久保・稲葉氏の時代にいたる小田原藩の歴史を、図版を交えて描く。

見直しが進む北条早雲研究

二〇一九年は、北条早雲が永正十六年(一五一九)に亡くなってちょうど五〇〇年ということで、早雲に関係する自治体で「北条早雲歿後五〇〇年」と銘うった企画がくりひろげられた。

博物館などでの特別展をはじめ、講演会・シンポジウムなどのイベントが催され、早雲および早雲からはじまる北条五代に人びとの関心が高まった一年だったのではないかと考えている。そのうちの、小田原市主催のシンポジウムの成果が『戦国大名北条氏の歴史』としてまとめられることになった。

さて、その早雲であるが、最近の学術書および史料集などで、北条早雲という名前があまり使われなくなっていることを御存知だろうか。北条早雲に代わって、伊勢宗瑞(そうずい)という名前で出てくることが多くなったのである。

その理由は、早雲自身、「自分は北条早雲である」と名乗った史料はなく、早雲の子で、二代目の家督をついだ氏綱のときに、伊勢から北条に苗字を変えたからである。そのため、若い頃は伊勢新九郎盛時、出家して早雲庵宗瑞と名乗っているので、正式名称となると伊勢宗瑞といわなければならない。

ところで、早雲の古くからのイメージとしてよく語られるのが、「確たる出自をもたなかった者が、腕一つで戦国大名にのし上がった典型」というものである。小説などでは、伊勢の素浪人だったなどと書かれることが多いが、実際は、京都伊勢氏の一族、備中伊勢氏で備中高越山(たかこしやま)城主伊勢盛定の子どもだったことが明らかになっている。しかし、現在でも「戦国三梟雄(きょうゆう)」の一人にカウントされていることからも明らかなように、依然として「裸一貫から身を起こした」ととらえている人が多いように思われる。

早雲に関する最近の研究で特筆されることがいくつかあるが、その一つが、早雲の生年および享年についてである。従来、私も含めて多くの研究者は、早雲の生年は永享四年(一四三二)で、歿年が永正十六年(一五一九)なので、享年は八十八と理解してきた。それは、『寛政重修諸家譜』の北条早雲の項に「享年八十八」と書かれていたからである。

ただ、これまでにも、享年八十八説に疑義を挟(さしはさ)んだ研究者もいた。「活躍した時期の年齢が高すぎる」というのである。「もう少し若かったのではないか」という声はあがっていた。しかし、その証拠はなかったため、疑問に思いながらも八十八説で受けとめていた。

ところが、黒田基樹氏が「駿河大宅高橋家過去帳一切」という史料(同氏編『伊勢宗瑞』所収)を発見したことで流れは変わった。そこには、つぎのように記されていた。

  伊勢早雲庵宗瑞天岳
  早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門
   禅正院法政維徳信士
   永正拾六年己卯八月拾五日滅 六拾四歳
     伊勢備中守盛定子 備中入道正鎮
      高越山城主 仕足利義政申次衆
      新九郎盛時 或長氏 仕足利義視申次衆 仕今川治部大輔氏親駿河守護代

この史料によって、はじめて早雲の享年が八十八ではなく、六十四だったことがはっきりしたのである。そうなると、生年は康正二年(一四五六)となって、二十四歳若返ったことになり、その方が矛盾がないのである。ちなみに、永享四年も康正二年も子年で、有名なエピソード、三島社参籠中の霊夢の一件とも矛盾しない。その霊夢というのは、鼠が二本の大きな杉の根もとをかじりはじめ、二本の杉を倒したとたんに鼠が虎に変身したというものである。二本の杉とは、扇谷上杉氏と山内上杉氏を暗示したものとして知られている。

他にも見直しがある。早雲の伊豆討ち入りの年についてで、古くは延徳三年(一四九一)とされていたが、『妙法寺記』(『勝山記』)の記載から、それが明応二年(一四九三)だったことが明らかとなった。しかし、『北条五代記』に「伊豆一国は三十日の中に相違なくおさめられたり」とあったことから、早雲は比較的簡単に伊豆一国の平定に成功したと解釈されてきた。

私自身は、伊豆国内の城の調査をしていて、狩野氏や関戸氏、さらには伊東氏などの抵抗勢力がいて、一ヵ月で伊豆平定は無理と考えていたが、具体的に、いつ頃までに平定されたかをはっきりさせることはできなかった。それが、全く別の視点から、この問題にメスが入れられることになったのである。

先鞭をつけたのは家永遵嗣(じゅんじ)氏で、氏の「北条早雲の伊豆征服―明応の地震津波との関係から―」(『伊豆の郷土研究』二四集、のち、黒田基樹編『伊勢宗瑞』に再録)において、明応七年(一四九八)八月の明応地震のときの津波と早雲による足利茶々丸討伐との関連を明らかにされた。なお、この件に関しては、金子浩之氏が『戦国争乱と巨大津波―北条早雲と明応地震―』を著わしている。

これまで、「大見三人衆由来書」所収文書によって、明応六年(一四九七)までは狩野城に拠る狩野氏が早雲に抵抗を続けていたことは明らかにされていたが、完全平定がいつなのかははっきりしていなかった。しかし、これら明応地震津波との関係から、早雲による伊豆平定は翌七年だったことが明らかになったものと思われる。

さて、そうなると、旧来の通説とのからみでもう一つの問題が浮上してくる。早雲による小田原城奪取の年次についてである。伊豆一国がまだ完全に平定できていないのに、果たして相模に攻め入ることがあるのだろうかという素朴な疑問が生じてくる。

これまで、早雲による小田原城奪取の年次については、一番早くみるもので明応三年(一四九四)説、同四年二月説、同四年九月説があり、四年九月説が定説のような形になっていた。しかし、伊豆平定を前述のように明応七年とすると、三年説にしても四年説にしても無理があるように思われる。

この点で山口博氏が『北条氏五代と小田原城』で注目した史料が「異本塔寺長帳(とうでらながちょう)」である。そこに、「明応九年、北条氏茂入道宗雲、小田原城ヲ攻取テ入城ス」とみえる。これも伝聞記事なので、実際に早雲による小田原城奪取が明応九年(一五〇〇)なのかどうかはわからないという側面もあり、可能性の一つなのかもしれない。

ただ、その可能性が高いと思われるのは、たった一通であるが、その裏づけとなる早雲の判物写(『戦國遺文後北条氏編』第一巻)があるからである。

  相州上千葉之内走湯山分、為替地、豆州田牛村先寄進申、可有御成敗者也、仍如件、
   明応十酉辛三月廿八日   (伊勢)宗瑞(花押)
    走湯山

文中の上千葉(かみちよ)は現在、小田原市内で、この地を伊豆山権現に寄進しているということは、明応十年(文亀元年、一五〇一)の段階で、早雲が小田原城を手にしていた証拠と考えられる。明応九年の小田原城奪取の蓋然性が一番高いのではないかと思われる。

[書き手] 小和田 哲男(おわだ てつお・静岡大学名誉教授)専攻は日本中世史、1944年静岡市生まれ。戦国時代を中心に執筆、講演活動のほかに、テレビ出演やNHK大河ドラマの時代考証を担当するなど幅広い活動をされている。
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戦国大名北条氏の歴史: 小田原開府五百年のあゆみ
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初出メディア

本郷

本郷 2020年3月 第146号

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