自著解説

『明智光秀の生涯』(吉川弘文館)

  • 2020/08/28
明智光秀の生涯 / 諏訪 勝則
明智光秀の生涯
  • 著者:諏訪 勝則
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(240ページ)
  • 発売日:2019-11-18
  • ISBN-10:4642058907
  • ISBN-13:978-4642058902
内容紹介:
連歌や茶道にも長け、織田家中随一の重臣に上り詰めながら、なぜ主君を襲撃したのか。謀反の真相に新見解を示し、人間像に迫る。

明智光秀と信長・秀吉

今般、『明智光秀の生涯』(以下、拙著)という題名の書籍を歴史文化ライブラリーのシリーズ本として吉川弘文館から刊行の機会を得た。これで、人物評伝については、『黒田官兵衛』『古田織部』(ともに中公新書)についで三冊目となる。ライフワークの豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の研究を含めると四人の人物についてまとめたことになる。四名のうち平穏な終焉を迎えたのは、官兵衛のみである。ほかの三名は激烈な最期となった。関白秀次は、叔父秀吉に拾丸(ひろいまる・秀頼)が誕生し、後継を盤石にさせるためにも妻子共々葬り去られた。茶聖千利休(せんのりきゅう)の継承者古田織部(ふるたおりべ)は、大坂の陣に際し、永世をめざす徳川家にとって旧豊臣系の武将ともネットワークのある危険因子と考えられ切腹させられた。秀次・織部とも権力の継承の狭間に散っていった人物である。そんなことも思いながら拙著を執筆していった。

織田信長(おだのぶなが)は、羽柴秀吉(はしばひでよし)とともに「トップスター」となった光秀をどのように見ていたのであろう。猜疑心が強く、執念深いとされる信長は、これまで佐久間信盛(さくまのぶもり)を始めとして、さしたる落度のない重臣たちを粛清してきた。また、荒木村重(あらきむらしげ)らの反旗にも直面している。粛清と反逆が頻繁に発生していたのだ。

「本能寺の変」が勃発する頃の信長の光秀に対する見方としては、二つの側面があったと思う。一つは、光秀の実力の限界に伴う不要論である(ここには、仕事をやり終えた光秀をもうこれ以上は不要に思う気持ちが込められる)。もう一つは、実力を蓄えた光秀、そして明智家を脅威と捉え、排除すべきものと考えた点である。光秀は、この二点について十分に察知していたと思う。恐れていただろう。主君信長からいつかは、自分も排斥されるだろうと。信長襲撃の主因である。光秀に天下を取る気はあったのであろうか。歴史学の範疇では、そんなことは分からない。光秀が足利義昭(あしかがよしあき)から信長の家臣へと乗り換えた理由は、不明だが、光秀は意外と野心家で計算高い人物であったと思う。もちろん、奉公先を変更するという話は、歴史上決して珍しいことではないが。

信長襲撃に関する朝廷や義昭の関与については、明確に証明できる一次史料が提示されない限り、存在しない。その暗殺の機会は偶然にもたらされた「ワンチャンス」であったと思う。決して計画性などはない。ただし、情報収集に長けていた秀吉は、信長襲撃直前の軍勢の配置を詳細に掌握していたのではなかろうか。そうでなければ、短時間に多くの軍勢を備中高松から動かすことはできなかったと推定できる。詳細かつ正確な「情報」を収集することは、軍事の基本であることは改めて述べるまでもない。

本能寺の変は、主君殺しという日本歴史上、衝撃的な事件ではあるが、王殺しを含む主君殺しという権力闘争は、人類史上、古今東西を問わず度々発生してきたもので、決して斬新なものではない。武将としての論理に基づくならば、光秀の行為は決して極悪非道とはいえない。生きるか死ぬかの選択であった。豊臣秀次や古田織部のように死を受け入れるかどうかであろう。

秀吉とて、信長の怖さを知り尽くしていたことだろう。信長に対する光秀との違いは、そのパフォーマンス力である。天正五年(一五七七)十月の播磨侵攻に際し、昼夜を分かたず奔走し、播磨の諸将から人質を集めた。この秀吉の迅速な働きに対して信長は秀吉を認め、播磨から一時、離れて帰国するように朱印状(しゅいんじょう)をもって伝えた。しかし、秀吉は、まだ働きが足りないとして但馬(たじま)方面を攻めている。秀吉が奮闘したのは、この二ヶ月ほど前に北陸方面における戦闘の際に、柴田勝家(しばたかついえ)と衝突し、戦線を勝手に離れて信長から激怒されていたからである。秀吉は、抹殺される可能性もあったが、この猛烈な行動力をアピールすることによって叱責を回避することができたのだ。

天正九年(一五八一)十二月二十七日、信長の茶頭津田宗及(つだそうぎゅう)は堺(大阪府堺市)から上洛の途次、偶然にも秀吉と出会った。宗及は秀吉から茨木(いばらき)城(同府茨木市)において、信長から拝領した道具を用いて茶会があるので、同道するように勧められた。「いやいや宗及殿、ご無沙汰しておるな。これから茨木の城で、殿から拝領した道具で茶会があるで一緒に参りましょうぞ」と秀吉は明るく人懐っこく宗及に語り掛け、茶会に誘ったと思われる。これが、人を扱うことが上手な秀吉といったところであろう。

また、秀吉の書状の内容は巧みである。信長襲撃後、細川藤孝(ほそかわふじたか・幽斎)のもとには、光秀と秀吉の両者から書状が届いた。両通を較べると秀吉の方がはるかに心に訴えるものである。

何かここまで書くと秀吉の優位性が際立ってしまう。しかし、役者秀吉には敵わないものの光秀は、その類まれなる才覚によって出世街道を邁進したのである。

まず、光秀は、連歌・茶の湯を積極的に嗜むなど織田家臣団随一のインテリであった。武人にとって武芸に優れているばかりでなく、文事に秀でていることも統治者として必須の条件である。品格も必要である。何となくであるが、光秀は信長を見下していた気がする。光秀の家臣たちも挙って文芸活動に精進した。文化的にも明智家は、「マチュア」な状況であった。光秀は医術の心得もあったと推定される。医術が本職であった可能性については、確かなことは分からない。

光秀とはどのような性格の人だったかと思うと、まず、細密な人であったことは間違いない。彼は、早くも永禄十二年の段階で、京都周辺の行政事務を担当するなど抜群の事務遂行能力を発揮した。その能力は「京都代官」としても生かされた。天正八年の大和国の検地では、迅速かつ厳格な姿勢で短期的に処置を済ませている。行政官としても秀でたものがあった。光秀は、文事に長けており、信長への戦況報告については、その場にいるかのごとく伝えており、信長から激賞されている。また、その緻密さは、当然ながら戦場でも生かされた。天正七年(一五七九)に丹波国八上(やかみ)城(兵庫県丹波篠山市)を攻略する際に、細かい取り決めを示すなど、戦陣において緻密な指令を出している。

また、光秀は部隊指揮官や事務官僚としては冷徹・厳格・非情な人であったとも思う。比叡山(ひえいざん)焼き討ち・大和検地(やまとけんち)・八上城攻め・丹波支配などさまざまな場面においてその厳しさが出ている。

そうは言いながら光秀の丹波平定戦において尽力している小畠永明(こばたけながあき)に出した天正三年(一五七五)九月十六日付の書状では、負傷し養生している永明を気遣い、出陣には及ばず、「わかき衆」の差し出しを求めている。そして、もし丹波において案内を依頼する場合は、乗物でも構わないとしている。なかなか光秀は、気遣いのできる人物でもある。その永明は、天正七年の正月二十六日の八上城攻めにおいて戦死してしまう。光秀は、千代丸が幼少につき、十三歳になるまで名代を置き、その後の家督の継承を認めている。優しい一面も垣間見ることができる。大河ドラマを楽しみにしたい(令和元年十二月成稿)。

[書き手] 諏訪 勝則(すわ まさのり・陸上自衛隊高等工科学校教官)1965年神奈川県生まれ。
明智光秀の生涯 / 諏訪 勝則
明智光秀の生涯
  • 著者:諏訪 勝則
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(240ページ)
  • 発売日:2019-11-18
  • ISBN-10:4642058907
  • ISBN-13:978-4642058902
内容紹介:
連歌や茶道にも長け、織田家中随一の重臣に上り詰めながら、なぜ主君を襲撃したのか。謀反の真相に新見解を示し、人間像に迫る。

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本郷 2020年3月 第146号

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