書評

『賢者たちの街』(早川書房)

  • 2020/09/25
賢者たちの街 / エイモア・トールズ
賢者たちの街
  • 著者:エイモア・トールズ
  • 翻訳:宇佐川 晶子
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(488ページ)
  • 発売日:2020-06-18
  • ISBN-10:4152099399
  • ISBN-13:978-4152099396
内容紹介:
戦間期ニューヨークのきらめきの中、20代半ばの男女3人の人生が交錯し、大きく動きだす。『モスクワの伯爵』著者のデビュー長篇

ニューヨークの魅惑と幻滅描く秀作

時は一九三八年。マンハッタンでタイピストとして働いていた、本書『賢者たちの街』の語り手であるケイト・コンテントは、バラード曲「ニューヨークの秋」がラジオから流れてくるのを聞く。歌っていたのはビリー・ホリデイ。「ニューヨークの秋/なぜこんなに魅力的なの?……ニューヨークの秋は/新しい恋の予感を連れてくる」。それから三十年近くが経過して、すっかり社会的に成功を収め、上流社会の一員になったケイトは、当時を振り返りながら、魅惑にあふれたこの曲に対して、こう疑問を持つ。「そんなに気分を高めてくれる歌なら、どうしてビリー・ホリデイはあんなに上手に歌ったのだろう?」

本書の語り口の巧みなところは、手の内をすべてさらけ出してしまわない点にある。隠すことは慎みなのだ。宙吊りになっているケイトの疑問に対して、読者が答えてみればこうなるだろう。すなわち、ケイトが引用している「ニューヨークの秋」の歌詞は二番の最初で途切れているが、その後に続くフレーズは「ニューヨークの秋には/よく痛みが混じる」だ。そして、いちばん痛みをよくわかっていた歌手はビリー・ホリデイだった。

ニューヨークの魅惑、そしてそれに必ずついてまわる幻滅の物語は、アメリカ小説の特産物のひとつである。そういう物語群を代表する作品として、わたしたちはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』やカポーティの『ティファニーで朝食を』をすぐに思い出すが、このエイモア・トールズの『賢者たちの街』もそうした伝統に連なる一冊である。まずここには、ニューヨークが醸し出す魅惑があふれている。高級レストランでの食事、ティファニーのライターといった無数の細部が、そういったものには縁遠いはずのわたしたち読者にも間近に感じられるような、五感に訴えかける描写で書き込まれている。しかし、この小説はただ単に上流社会への憧れを描いただけの凡百の作品ではない。ここには、上昇志向を持つがゆえに虚飾や嘘を身にまとった人間が多く登場する。それでも、彼らに共通して言えるのは、虚飾や嘘の結果が失敗や幻滅に終わろうとも、彼らがみな慎みを持ち、自分に対して誠実に生きようとしていたことだ。その意味で、本書に悪人は誰一人としていない。だから、不思議なことに、本書の読者にとっては幻滅の物語のほうがはるかに魅惑的に映る。ケイトは人生のいくつかの局面で「正しい選択」をして現在の成功を手に入れるが、それによって失ったものが結晶化する。その結晶のようにきらめく失ったものは、「ニューヨークの秋」で歌われる、マンハッタンの空の「きらめく雲」よりも美しい。

本書の魅惑は、なにもニューヨークの魅惑だけではなく、達者な語り口も大きな魅力だ。登場人物たちが嘘で隠していた本当の姿は、語り手のケイトが隠していた彼女自身の本心と同じように、さりげなく配置されている、小道具を活かした伏線を通して徐々に明らかになるのも推理小説的な巧みさ(文学好きなケイトは、この物語の途中から、クリスティーを愛読するようになる)。作者のデビュー作とは思えない、ほとんど現代の新しい古典と呼んでもいい秀作である。
賢者たちの街 / エイモア・トールズ
賢者たちの街
  • 著者:エイモア・トールズ
  • 翻訳:宇佐川 晶子
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(488ページ)
  • 発売日:2020-06-18
  • ISBN-10:4152099399
  • ISBN-13:978-4152099396
内容紹介:
戦間期ニューヨークのきらめきの中、20代半ばの男女3人の人生が交錯し、大きく動きだす。『モスクワの伯爵』著者のデビュー長篇

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毎日新聞

毎日新聞 2020年7月18日

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