風変わりな漢文ににじむ人生
松岡小鶴(こつる)は、柳田国男の祖母にあたる人物だ。その漢詩や書簡を現代語訳し、生涯とともに紹介する内容としては初の試みとなる本書。編著者の門玲子は、女性史研究家として長年、とくに江戸期の女性による文学を読み続けてきた。そんな中、愛知県西尾市の岩瀬文庫が所蔵する『小鶴女史詩稿』と出会う。関心を持った理由の一つは、女性が書いたものとしては珍しく全編漢文で書かれていることだという。
小鶴は文化3(1806)年、播磨国神東郡田原村辻川の生まれ。同地で明治6(1873)年に没している。父の跡を継いで医業に従事しながら一人息子の文(のち操)を育てる。柳田国男は、小鶴の死後2年して生まれたので、祖母と直接会ってはいない。だが、祖母と親交のあった庄屋・三木通深(竹臺)の蔵書を、まだ子どものうちに自由に読む機会を与えられるなど、祖母の代の名残に触れて育った。本書は竹臺に宛てた書簡も含む。柳田国男が生を享(う)ける以前の環境を想像できる。
女性に開かれた学びの場はまだ少なかった時代。小鶴は、父が自宅の塾で塾生たちに教える学問に聴き入り、家の蔵書を読んで自習した。結果、身についたものは、少し風変わりな漢文。息子が儒者となることに期待を掛けながらなおも消えなかったのは、自分も学びたかったという思い。その残念さの滲(にじ)み方が正直な点に、小鶴の書き物の魅力がある、ともいえる。
学問のために家を離れて暮らす息子に宛てた詩や書簡が人柄を伝える。たとえば橘(みかんの類)の詩。「言ってはいけないよ。酸っぱくて口にすることができないなんて/この橘には、母の真心の香が添えてあるのだから(道〈い〉う莫〈なか〉れ酸を生じ口にす可からずと/添え来る阿母赤心の香)」。子にとっては、ありがたくも鬱陶(うっとう)しい来信だったかもしれない。小鶴の人生が行間から見えてくる。控えめに、けれども明確に。