後書き

『イスラーム・ガラス』(名古屋大学出版会)

  • 2020/10/09
イスラーム・ガラス / 真道 洋子
イスラーム・ガラス
  • 著者:真道 洋子
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(496ページ)
  • 発売日:2020-09-18
  • ISBN-10:481581001X
  • ISBN-13:978-4815810016
内容紹介:
歴史を彩る「世界の華」――。古来のガラス文化を統合して成立し、近代芸術にも大きな影響を与えたイスラーム・ガラス。その器形や成形・装飾技法から、美術工芸としての展開、さらには日本をはじめ世界各地への伝播まで、多数のカラー図版とともに豊かな物質文化の全体像を映し出す。
「イスラーム・ガラス」の第一人者として国際的に活躍するも、2018年に急逝した真道洋子氏。その遺作となる『イスラーム・ガラス』がこのたび刊行されました。彼女が生涯をかけて取り組んだ研究とはどのようなものだったのでしょうか。監修者のあとがきから抜粋してご紹介します。

「ガラス」が歴史を語る? 考古学者が生涯取り組んだモノ(物質文化)の世界

タイトル『イスラーム・ガラス』は本書の内容を端的に表す単純明快な言葉であるように思えるが、イスラーム考古学者として無数のガラス片を丹念に調査し、研究してきた著者、真道洋子だからこそ使うことができた言葉だと言えよう。宗教を指す「イスラーム」という言葉をなぜ「ガラス」という工芸の一メディアと結びつけて語ることができるのか。ガラス素材の作り方、ガラスの用途、ガラス器の形、ガラス器の装飾、およびガラス器の移動といったガラスの諸相において、時代性や地域性だけではなく、イスラームの下での人々の日々の営みが大きく反映されていることを真道は本書で多角的に示しているのである。また、そこにはムスリムのみならずユダヤ教徒やキリスト教徒がさまざまに関わっていたことも明らかにしている。モノを見て人々の生活を知る、それが真道の希求してきた「物質文化」研究の目的であり、本書ではその十分な成果が示されている。本書には真道が生涯をかけて取り組んだイスラーム・ガラス研究のあらゆる側面がちりばめられており、専門書としての学術性はもちろん、工芸に関心をもつ一般の読者にも魅力的なイスラーム・ガラスの基礎知識を提供するだろう。


イスラーム考古学者として

真道洋子は早稲田大学、同大学院で考古学を専攻し、1980年代前半に同大考古学科の櫻井清彦教授が隊長を、その後を通じて師と仰ぐことになる川床睦夫氏が現場主任を務める早稲田大学・出光美術館フスタート発掘調査隊に参加して、フスタート出土のガラスをテーマに修士論文を執筆した。1992年刊行の2巻本となる大部のフスタート発掘調査報告書でもガラス器、装身具類を担当した。1990年代には、出光美術館三鷹文館、のちに中近東文化センターの主任研究員であった川床氏と共に、自らも同センターの研究員として、さらにフスタート遺跡とシナイ半島のトゥール、ラーヤ遺跡の発掘調査を行った。2010年からは川床氏が設立したイスラーム考古学研究所の研究員となり、東洋文庫研究員、早稲田大学イスラーム地域研究機構招聘研究員を兼任して、イスラーム・ガラスを軸にイスラーム考古学、イスラーム物質文化の研究に励んだ。この間、真道の尽力により、念願であったフスタート遺跡、トゥールおよびラーヤ遺跡の英文報告書が早稲田大学イスラーム地域研究機構から刊行された。2010年には博士論文「初期イスラーム・ガラスの研究―ラーヤ遺跡出土ガラスに見るイスラーム・ガラスの変容と展開―」を早稲田大学に提出し、博士号が授与された。本書第I部で明らかにする、エジプトを中心としたイスラーム・ガラスの展開は、こうした長年にわたる発掘調査と分析に基づく、緻密で鮮やかなガラス史となっている。フスタート出土のカット装飾瓶、ラーヤ出土のカット装飾杯のほぼ完形の2点は、異なった遺跡から出土したにもかかわらず、奇跡のように対を成した、真道にとって特別な存在であったガラス器である。

中近東文化センター在任中は様々な展覧会の企画を担当していたが、なかでも「エジプトのガラス」、「イスラームのガラス」、「ガラスの博物誌」は、センター所蔵の貴重なガラス作品を、発掘による新知見を交えながらわかりやすく展示・解説した。また、2004年には世界史リブレット76として、『イスラームの美術工芸』を山川出版社から刊行し、ガラス以外の工芸も含むイスラーム地域工芸史の、入手しやすい概説書を幅広い層の人々に供した。ガラスを学ぶために必要な、多様な観点を提示した本書『イスラーム・ガラス』の序章は、真道のこれまでの経験を活かして、平易で明解に記されている。とりわけ口端と底部の整形法の分類は真道の真骨頂と言えるもので、これは、大抵の場合完形からはほど遠い小さな出土ガラス片を扱ってきた彼女が出土遺物を見るときに注目した、重要な視点であった。

イスラーム・ガラスから世界へ、人々の暮らしのなかへ

近年の真道の研究は、第II部で示されているように、イスラーム・ガラスの地球規模の広がりを追うものだった。北アフリカ、東欧、東南アジア、中央アジア、中国と、精力的にイスラーム・ガラスの足跡を訪ねていた。特に力を入れていたのは、ルーヴル美術館の考古学者ロッコ・ランテ氏の招聘で数年にわたり調査を行っていたウズベキスタンのブハラ・オアシス出土のガラスであり、今後はスペインの後ウマイヤ朝宮殿遺跡マディーナト・ザフラー出土品を中心とするアンダルスのガラスも深く研究する予定だった。

同時に、イスラーム・ガラスが生活のなかでどのような役割を果たしていたか、個々の器がささやく物語に耳を傾け、ガラスを用いた当時の人々の暮らしを少しでも再現しようと研究を重ねた。それが第III部に結実している。その第III部の3本柱の出発点はいずれも真道がかつて土の中から呼び起こしたフスタートやラーヤのガラス片であった。クフル顔料[医療・化粧用に中東地域で古くから用いられた顔料]の容器として使われた小さなモラル・フラスコ、薔薇水の精製器具でもあり運搬用容器でもあった濃紺色のカービラ、破片ではあっても生き生きと人物や動物が描かれていたエナメル彩ガラス片である。モラル・フラスコは真道が2018年の国際ガラス史学会で発表したテーマでもあり、東地中海文化圏の装飾意匠とメソポタミア文化圏の装飾技法が、両文化圏地域を統一支配したイスラームの下で融合した例としてあげられ、その「イスラーム・ガラス」たる所以を象徴的に示している。

物質文化としてのイスラーム・ガラス

真道がイスラーム・ガラス研究にいそしんだ数十年の間、科学的な研究手法が著しく発展し、ガラス史を取り巻く研究の方向性にも大きな変化が生まれた。彼女はそれを自分の研究に積極的に取り入れると同時に、考古学者として自らの研究のあり方を問い直していたと思われる。真道が本書の「あとがき」として書き始めていた文章では、自らの研究を振り返り、川床氏が提唱した物質文化研究の重要性をあらためて強調している。そして続いて、今後の研究の展望について語られるはずであった、と思う。しかし、これ以上書き進められることはなかったのである。2018年9月初めにイスタンブルで開催された国際ガラス史学会第21回大会に出席した真道は学会終了の翌日交通事故に遭い、同13日帰らぬ人となった。享年57歳。志半ばの本人にとってどれだけ無念であったことか、想像もできない。本書も初稿が出来上がって、刊行に向けていよいよ佳境に入るところであったし、次の発掘現場も彼女の参加を待っていたであろう。これからますます自由に研究の翼を広げるところだったはずである。かけがえのないイスラーム・ガラス考古学者であり、「イスラーム物質文化」研究の同志であり、気の置けない友人であった真道洋子の死を心より悼む。

*

遺された本書の初稿を何とか出版できないか、ご夫君の多大なるご尽力があり、監修者が原稿と図版・挿図を整えることになった。原稿は最終章まで揃っていた(ありがたい!)が、初稿だけにまだ完成度の低い箇所や註の不備、図版が決まっていない部分も多かった。監修の作業としては、本文を整えること、註を整えること、図の挿入箇所の特定、図の選定、図の収集と使用許可の取得、地図の作成、参考文献一覧の作成など多岐にわたった。本文では、文章の乱れ、客観的な事象の誤記、記述内容の重複、表記の揺れに手を入れた以外は真道による原文の意向を残すよう心がけた。

真道さん、三回忌をめざして、あなたの本がやっと形になりました。日本のイスラーム・ガラス研究の礎としてこの本を遺しておいてくださり、ありがとうございました。本当ならばご自身で手に取るはずだったのに……。監修者としてこの本の仕事に携わった1年間は、真道さんと真剣で濃密な対話を続けた貴重な時間でした。天国で喜んでいてくれたら、うれしいです。

[書き手]桝屋友子(東京大学東洋文化研究所教授。著書『イスラームの写本絵画』など)
イスラーム・ガラス / 真道 洋子
イスラーム・ガラス
  • 著者:真道 洋子
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(496ページ)
  • 発売日:2020-09-18
  • ISBN-10:481581001X
  • ISBN-13:978-4815810016
内容紹介:
歴史を彩る「世界の華」――。古来のガラス文化を統合して成立し、近代芸術にも大きな影響を与えたイスラーム・ガラス。その器形や成形・装飾技法から、美術工芸としての展開、さらには日本をはじめ世界各地への伝播まで、多数のカラー図版とともに豊かな物質文化の全体像を映し出す。

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