書評
『オーソン・ウェルズ偽自伝』(文藝春秋)
女優と暮らす夢
一人の映画狂の少年がいて、生まれ育った地方都市にあった五つの映画館に昭和二十五年ごろから三十四年にかけて、掛かったすべての映画をみたとする。いったい何本の映画を彼はみたことになるか。その頃はまさに映画全盛期で、日本全国で映画館は七千館以上あったというからおよそ一万人に一館という勘定になる。たしかその地方都市(和歌山県田辺市)の人口は四、五万あたりだったから全国平均の配置だ。葵(あおい)館(松竹)、ハリウッド(洋画・東映)、錦輝館(東宝)、常盤座(日活)、老松座(大映・新東宝)。各館だいたい二本立てで、月に二回プログラムが変わった。少年はその町を出るまでに少なくとも千本は下らない映画をみて、頭はすっかり痺(しび)れたようになっていた。彼は大阪の高校へ行ったが、相変わらず授業をさぼって天王寺、難波・千日前、心斎橋界隈の映画館をかたっぱしからみて歩き、ついに映画監督になることに決めて家出して、松竹の蒲田撮影所の門をたたく。もちろん相手にされず、家に連絡がゆき、連れもどされる。一九六二年、十六歳の五月のこと。
グルノーブルの田舎少年アンリ・ベール(スタンダール)の夢はパリに出て、オペラ作者になって女優と暮らすことだった。極東の敗戦国に敗戦の年の瀬に生まれた少年の夢も首都に出て、映画監督になり、女優と恋をすることだった。スタンダールのころ、十九世紀はなんといってもオペラが花形だった。二十世紀は映画というわけ。
溝口健二も小津安二郎も黒澤明もみんな映画がすきで矢も楯もたまらず、十五、六歳で撮影所に入っている。少年も彼らのひそみにならったつもりだったが、もう徒弟修業のなりたつ時代ではなかった。高度経済成長期、映画会社の入社試験には一流大学出身の青年が押しかけた。日本映画がだめになったのはこういう秀才たちのせいだ。と、かつての映画狂少年、僕はうらみがましく述べておく。
オーソン・ウェルズは生まれて十八ヵ月めで、ベビーベッドの中から診察に来た医師の顔をみつめて、「薬をのみたがる気持は、人を動物と区別するもっとも大きな特徴のひとつだ」とのたまわったというくらいの神童で(僕はこういう話を喜んで信じる)、五歳にして天才子役として舞台に立つが、十一歳のとき、南洋物のサイレント映画で、水の中で美しい肢体をゆらめかせて泳いでいた女優に恋をする。
彼女は水の中でかわいらしい足をひらひら舞わせていた。体がしんからとろけるような美しさだった。あのときの映画が人生を変えた。いつかあの女性を見つけだすぞと心に誓った。
舞台俳優、ラジオ俳優として大成功をおさめたオーソン・ウェルズだったが、彼の夢はあくまで映画だ。そして、あの美しい肢体の女優を見つけだすのだ。
それから十数年の後、彼は夢にみた女、黒髪の美貌のメキシコ女優、ドロレス・デル・リオと、映画会社が牧場で開いたパーティーでついにめぐりあう。
そこに彼女がいた。夜になってから二人で泳ぎに行った。その泳ぐ美しさといったらなかった。
ひとまわり年上のドロレスはすでに人妻、二十五歳のオーソンも結婚していたが、ふたりは急速に接近して、ひそかな逢瀬をたのしむ。
彼がはじめて撮った映画、映画史上不朽の名作「市民ケーン」はドロレスとの恋のさなかで生まれた。彼は幸福の絶頂にあった。映画の入りはさんざんだった。
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