書評
『メグレ罠を張る』(早川書房)
探偵の役割
パリで六ヵ月の間に五人の女が一人の殺人鬼の餌食になった。奇妙なことは、パリに二十もある区のうちでたった一つの区、モンマルトル区の中だけで起こっていること。なぜか被害者の着物が裂かれている。暴行の跡はない。足取りはいっこうにつかめなかった。しかし、犯人はモンマルトルのどこかにひそんで、なにくわぬ顔で暮らし、次の犯行を準備しているに違いない。
犯人像もなかなか定まらず、パリ司法警察の警視メグレが苦闘のはてに立てた仮説とは、幼少期から屈辱的な気持にさせられてきた人間が突如爆発する。人殺しをする。人殺しをすることで犯人は自分の力を発見する。この力の感じは犯行を重ねるごとに倍加する。そこで、仮に他の誰かが逮捕されて、彼の殺人犯の地位におさまり返り、犯人が自分の力、栄誉と考えているものを横取りしたとしたら、彼はどんな反応をおこすだろうか。
こうしてメグレがイチかバチかでパリに張った罠とは、犯人らしき男をすでに逮捕した、と記者たちに勝手に揣摩(しま)臆測して独断で書きたてさせることだった。そのためにメグレは一人の男を取調室に閉じこめ、刑事たちを徹夜で出たり入ったりさせる。新聞はまんまと乗った。
「犯人逮捕か?」
メグレを中心としたパリ警視庁は、四百人の私服姿の刑事、婦人警官をモンマルトルを中心に張り込ませる。犯人ははたして罠にかかってくるか。栄誉を横取りされてなるものか、とメグレの挑発に乗って、今夜、犯人は新たな殺人を犯して自己主張しようとするだろうか。
メグレには自信がない。自分の仮説が全く根拠のないものだとしたら、長い刑事生活の中で彼ははじめて犯人との戦いに敗れることになる。メグレはあまりに犯人について考え、問題をこね回しすぎて、自分でもほとんど殺人犯人の実在さえ疑うような気持になる。
しかし、犯人はとび出してきた。私服婦人警官に襲いかかったのだ。犯人は逃亡したが、婦人警官がとっさにもぎとったボタンから足がつき、モンマルトルで生まれ育った室内装飾家が逮捕される。男は落ち着き払って、無実を主張するが、あらゆる状況証拠から彼が真犯人であることは確実だ。メグレは久しぶりに自宅に帰って、湿っぽい敷布のベッドに入り、眠りこんだとたん電話のベルが鳴って、部下の刑事の声がひびく。「また犯行がありました……女が……ナイフで刺されて、着物は裂かれています」
メグレの苦悩はまだ終わらない。真犯人はやっぱり室内装飾家なのだが、ここから先のメグレと真犯人の取調室における対決というか、あるいは真剣な対話といったほうがより適切だが、この場面がすばらしい。男がなぜこのような犯罪を犯すに至ったか、それがメグレのぶっきらぼうな尋問とつぶやきによって、みごとなヒューマン・ドキュメントとなっている。
ボワロ=ナルスジャックによれば、謎解き小説(ディテクティブ・ノベル)のジャンルにおいて、シムノン以前の作家たちは、たいてい探偵が殺人者の肩に手を置き、すべての証拠がこの男を指しているのだから彼が犯人であると語る瞬間をもって、探偵の役割は終わるとみなした。シムノンの小説はそこから先が読みどころなのだ。つまり、なぜ犯人が彼であって他の男ではないのか。なぜその犯罪は彼の犯罪なのか。シムノンは、癒しようのない生の病の最高度の痙攣(けいれん)(殺人)を、罪人の内部から照らし出すように書く。その照明を担当するのがメグレ警視だ。
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