書評
『戦後文学のみた〈高度成長〉』(吉川弘文館)
豊かな文脈が伝えるリアル
同時代の小説は日本の高度成長期をどう捉えていたのか。本書は高度成長期の実相を小説の記述から検討する。この着想がいい。歴史の客観的な記述や統計データと異なり、小説には豊かな文脈がある。しかも、主人公を通じて自分がその文脈の中に入り込み、内側から世の中を観ることができる。ノンフィクションよりもリアリティがある。本書は高度成長期のリアルな姿を今に伝えている。成熟しきった日本経済の「閉塞感」との対比で、「人々が希望をもって生きていた元気な時代」「一生懸命働けば報われる安定した時代」「『三丁目の夕日』的な共同体が残っていた優しい時代」として、肯定的なイメージで高度成長期を振り返る向きがある。とんでもない話だ。
先が見えない激動期と言われて久しいが、高度成長期の「激動」は格が違う。経済成長のエンジンとなった鉄鋼業を例にとれば、外国から導入された技術革新は旧来の熟練労働の多くを無効化した。肉眼に頼っていた高炉の操業は制御装置による遠隔操作に代替され、20年の熟練を要した圧延の技能も不要になった。仕事のなくなり方はAI導入の比ではない。現場のリーダーが経験的熟練を若手に伝承し、相互に共同して作業を進める職場仲間も消滅した。同時代の小説からは、桁違いの激動期の中で翻弄され、不安におびえる人々の姿が浮かび上がる。
政官財複合体の中で渦巻く野望を活写した石川達三『金環蝕』。貿易が自由化されていない中で強大な利権を握る政治家と官僚が出世と保身に明け暮れる姿を描く松本清張『中央流沙』。いずれも高度成長期の社会に横溢していた理不尽とむき出しの貪欲を描いている。
経済成長が止まったら止まったで、いろいろと問題は出てくる。しかし、である。高度成長期は人の命がやたらと軽かった。あちこちで人が殴られていた。「悪い奴ほどよく眠る」時代だった。今はどうか。チンケな政治家夫妻がセコイ買収をすれば「大規模疑獄」と報じられる。上司が理不尽な言動をすればたちまちパワハラで処分される。コロナは厄介だが、今日も行楽地はGo Toキャンペーンで人が溢れている。
それでも社会は進歩する。成熟した日本に生きる幸せを噛みしめる。
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