書評

『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(国書刊行会)

  • 2021/02/01
ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ / 乗代 雄介
ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ
  • 著者:乗代 雄介
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(648ページ)
  • 発売日:2020-07-17
  • ISBN-10:4336065888
  • ISBN-13:978-4336065889
内容紹介:
現代文学の新星、乗代雄介が15年以上書き継いだブログを著者自選・全面改稿のうえ書籍化!書き下ろし小説『虫麻呂雑記』を併録。

世界をつかまえるために繰り返す

中学生のときにパソコンを手にした人間が、ブログを開設してそこで書き続けた。十五年以上経ったいま、「ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ」というタイトルのそのブログに残された文章は膨大なものになり、書き手の乗代(のりしろ)雄介は作家としてデビューし、三作目に当たる「最高の任務」は芥川賞の候補作になった。本書は、そのブログから選ばれた掌編六十七編に、長編エッセイと書き下ろしの小説「虫麻呂雑記」を加えて一冊にした、厚い書物である。

乗代雄介は読んだ本からの引き写しをキャンパスノートに書きためていて、そのノートが六冊目になるという。そして、そのノートをときどき見返すたびに、ふと目に留まった文章が大きな助けになるという。だから、彼が書くものには、そのノートからふたたび書き写された文章が頻繁に出てくる。しかし、それを衒学(げんがく)趣味と言うのは当たっていない。そうした文章は、彼にとって決して過去のものではなく、現在の彼の心を動かし、思考を誘うからだ。しかし、そのノートに書き写した現在もまた、時が過ぎれば過去になる。そのときに心に触れたのは何だったのか、それを考えながら彼はまた現在にその文章を作品の中に引用し、その作品を何度も書き直す。果てしない現在の更新だ。

そのように読まれた文章が多数鏤(ちりば)められたエッセイ「ワインディング・ノート」は、長く曲がりくねった道で、ときには横道に逸れるように見えても、それはすべて読むこと、書くこと、考えること、そして世界を見ることという、たしかな道から外れてはいない。

彼が範と仰ぐサリンジャーがグラース・サーガであの「太っちょのオバサマ」として形象化したような、実態のない「自分の中の読者」に向かって書くという乗代雄介の文章を、たとえばわたしのような生身の一読者が読むのは、つねにきらきらとした瞬間が連続する現在の体験である。作者の目の動き、思考の動きに、こちらも心が動かされる。だから、乗代雄介が読んだ本から引用するように、ここでわたしは乗代雄介の文章を引用してみよう。「虫麻呂雑記」の語り手である「私」は、葛飾区にある水元公園にたびたび出かけて、そこの池のほとりで腰を下ろし、景色の描写や心の動きをノートに書き留めることを一年続けた。その「描写の練習」の一節から。

「この池でアオサギの成鳥が見事にカエルを捕らえたのを見たことがある。彼は池をのぞきこんだままその時が来るまでの一時間近くをほとんど動かずに過ごしていた。獲物をひたすら身じろぎもせず待っていたあの姿。獲物を待っている(これも怪しい言葉だが)熟練したアオサギに我慢や忍耐などの苦を連想させるものは何一つ無いのかも知れないというのは、とても楽しい想像で、揺るぎない希望だと感じる。そのように書くためには、どれだけここに通えばいいのだろう」

アオサギがカエルを捕らえるように、世界をつかまえて書く。そのために乗代雄介は練習を繰り返す。その練習の一環としても読める掌編群の中の「泳ぎ続けろ、いい加減にしろ」になぞらえると、プールの水がなくなってもまだ平泳ぎの動きを止めないユウスケに対して、わたしも「そうだユウスケ、諦めるな! 泳ぎ続けろ!」とひそかな声援を送りたい。
ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ / 乗代 雄介
ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ
  • 著者:乗代 雄介
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(648ページ)
  • 発売日:2020-07-17
  • ISBN-10:4336065888
  • ISBN-13:978-4336065889
内容紹介:
現代文学の新星、乗代雄介が15年以上書き継いだブログを著者自選・全面改稿のうえ書籍化!書き下ろし小説『虫麻呂雑記』を併録。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2020年10月31日

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