これまでとは異なる共存方法の探求へ
一九六〇年代前半の長篇小説『もう一つの国』や評論『次は火だ』で知られ、人種差別問題に関わる社会的な発言でも精力的な活動を行っていた、アメリカの黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンは、国外で長期間の滞在生活を繰り返した。その異郷の一つ、トルコのイスタンブールに滞在していたときに、写真家セダット・パカイがボールドウィンの日常生活をフィルムに収めた、わずか十分少々のドキュメンタリー映画がある。その映画の冒頭、朝早く、寝室で目覚めたボールドウィンがベッドに腰掛けながら、煙草(たばこ)を吸うところに、彼自身のナレーションがかぶってくる。「離れたところからのほうがよく見える……別の場所、別の国からのほうが」。わたしはそのボールドウィンの声にうながされて、『もう一つの国』の最後のページを開いてみる。そこには「イスタンブール、一九六一年十二月十日」と結びに記されている。ボールドウィンはまさしくこのイスタンブールの地で、傑作『もう一つの国』を完成させたのだった。そのボールドウィンがサングラスをかけてタクシム広場を散歩する場面。言葉が通じないはずなのに、雑踏の中で彼は誰かに話しかけ、まったく屈託のない笑顔を見せる。一瞬のことだが、わたしはこの感動的なまでに無防備なボールドウィンの笑顔を他で見たことがない。それはきっと、「別の場所、別の国」だからこそ可能になったのだろう。本書『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ』で、著者のエディ・S・グロード・ジュニアはこのエピソードについて、「映っているのはジミーだけだが、その顔に出る喜びからは、カメラに映らないところに愛情のあるコミュニティがあり、それがジミーを育んでいることが伝わる」と書いている。
『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ』は、著者が言うとおり、ボールドウィンの伝記でもなければ、文芸評論でもないし、単純な歴史書でもなく、その「三つすべてを組み合わせたもの」である。記述は直線的ではなく、ボールドウィンが生きていた過去と、本書の中での現在、すなわち二〇二〇年のあいだを揺れ動く。それは、トランプ出現以降の困難な時代にあって、どう考えればいいのか、ボールドウィンを再読することによってその指針を求めようとするのが、本書の中心的な課題だからだ。
本書が粘り強い口調で論じているのは、「真に多民族的な民主国家」という理念にアメリカが近づくことを妨げている、アメリカの「嘘(うそ)」であり「裏切り」である。その中で最も大きな嘘は、黒人を本質的に劣等だとしておとしめる考え方であり、アメリカが根本的に善良で世界の道徳を主導する立場にあるという考え方だ。ボールドウィンは生涯を通して、こうした嘘に向きあっていた。そして、幾度となく失意を味わいながら、誰もが「完全に自分になれる瞬間」がこのアメリカに訪れるという希望を捨てることはなかった。
たしかに、本書では一九五〇年代で短期間のうちに社会的にも著名な黒人作家になり、公民権運動が盛り上がりを見せた六〇年代前半に『次は火だ』を発表して、時代を代表する一人だと目された頃のボールドウィンについても書かれている。しかし、本書で最も強調されているのは、一九六八年のキング暗殺後に、鬱(うつ)状態になりながら、不安定な時代をくぐり抜けようとした後期のボールドウィンであり、特に著者が再評価するのは、一九七二年に出た社会批評の『巷に名もなく』である。
オバマが黒人で初の大統領になったからといって、アメリカの理想がついに達成されたと思うのは幻想にすぎない。「白人至上主義」はアメリカにつねに内在しており、白人の優位をおびやかす動きがあれば、それに対抗する波が必ず生まれる。その意味で、歴史は繰り返される。露骨に人種差別主義的なトランプは決して例外的な現象ではなく、著者に言わせれば、「アメリカをふたたび偉大にしよう」と宣言したレーガンの落とし子だと考えるのがふさわしいという。そして、この混迷をきわめる時代にあって、ボールドウィンの言葉を読み返すことが、「これまでとは異なる共存方法を探求する可能性」を切り開いてくれる。「アメリカ人はこの国が人種差別主義的なままであるかどうかを決めなければならない。その決定を下すには、私たちは国としての罪という重荷をドナルド・トランプに転嫁する落とし穴にはまらないようにしなければならない。私たちは内に目を向ける必要がある。トランプは私たちなのである」
本書は決して他山の石というおざなりな言葉ではすまされない。わたしたちの国にも、ヘイトスピーチが横行し、ここははたして民主主義的な国なのだろうかと暗澹(あんたん)たる気持ちになることも多い。そのときに、『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ』は、少し離れたところからわたしたちの国を考える、「別の場所、別の国」を提供してくれる。その場所に見いだせる、ボールドウィンのあの笑顔を導きの光にして。