書評

『暗い旅』(河出書房新社)

  • 2017/07/22
暗い旅  / 倉橋 由美子
暗い旅
  • 著者:倉橋 由美子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(265ページ)
  • 発売日:2008-09-04
  • ISBN-10:4309409237
  • ISBN-13:978-4309409238
内容紹介:
恋人であり婚約者である"かれ"が突如謎の失踪を遂げた。"あなた"は失われた愛を求めて、東京から、鎌倉そして京都へと旅立つ。切ない過去の記憶と対峙しながら…。壮大なるスケールの恋愛叙事詩として、文学史に燦然と輝く、倉橋由美子の初長編。「作者からあなたに」「あとがき」「作品ノート」収録。
倉橋由美子さんの著作を好んで読んでいたのは、はるか昔。二十代初めから半ばにかけての数年間だ。

私は二十代の最後に親もとを離れて一人暮らしを始め、その後何度か引っ越しをした。読み返してみようという強い気持はなかったけれど、手放す気にはならなかった。自分でもアラッ?! と驚くくらい奇蹟的にカッコよく撮られている写真か何かのように、たいせつに秘蔵してきたのだ。

今回、読書体験について書くために書庫の奥から倉橋本を探し出してみたら全部で十冊だった。デビュー作の『パルタイ』から『迷路の旅人』まで。倉橋さんの作品史で言うと一九六〇年から七二年までの約十年間に書かれたものの中で読んでいないのは一九六一年の『婚約』だけということになる。

ちょっと意外だった、五冊前後と思い込んでいたのだ。あんまり一人の作家に執着して読むほうではないので。そもそも小説というもの自体、そんなに好きというわけでもないので。大雑把に政治的区分で言うと倉橋さんは六〇年安保世代で私は七〇年安保世代だから、十冊のうちの大半は時代をさかのぼる形で読んだのだ。古書店で入手したものもあると思う。とにかく、自分で思っていた以上に好きだったんだなあ。

いったい何が、どこが、好きだったのだろう。私の記憶では『暗い旅』が最も好きだったような気がする,読み返すことはなかったのに、その小説の感触だけは、懐しくせつない曲のようになって、いまだに残っている。二十代の頃の自分を後ろから覗き見るような気持で、『暗い旅』を読み直してみよう。

仏文の大学院生であるヒロインが、突然失踪した同い歳の婚約者のゆくえを追って、鎌倉そして京都をさまよう。季節は冬。書き出しはこうだ。

光明寺行きのバスがでるまで、十五分以上も待たなければならない、急いでゐるわけではないが、あなたはいらいらしながらバス乗り場をはなれて駅前広場を横切る。

これだこれだ、と思う。ヒロインは名前ではなく「あなた」として描かれてゆく。そして最後までその名は明かされない。私はまず、そこに惹かれたのだ。二十代のその頃、私は普通に名前のある人物が登場する小説を読むのが、なぜか鬱陶しかった。ただのQとかPとかKとかいった名前の倉橋小説は抵抗感なく入りこめた(当時、安部公房の作品を読んでいたのも同じ理由だったと思う)。

旅の中で「あなた」と「かれ」の物語がだんだんと明かされてゆく。旅をしている現在の中に過去七年間の記憶の断片が、ほとんど境い目なしにたびたび割り込んでくるのだ。今では小説でも映画でも珍しくなくなったけれど、六〇年代当時は新鮮だったのではないか。

この「あなた」と「かれ」というのが凄い。十七歳で湘南の浜辺で美少女と美少年として出会い、たちまち惹かれ合い、やがて双生児のごとく共犯者同士のごとく愛し合うのだ(肉体的な交わりに関しては「愛する」ではなく「あいする」と周到に書き分けている)。

「あなた」と「かれ」は、例えばこんな会話を交わす。

「なぜ死にたいの?」
「生きてゐる理由がないからさ。きみだつておなじだらう?」
「でも通俗的な理由ね。生きる理由も目的もない、それにもかかはらずといふより、むしろそれだからこそ生きていくといふことは、とつてもシニックで、いいぢやない? それでいいのよ、あたしたちの原理はさうだつたはずでせう?」
「ああ、さうだらうね。でもそいつはカミュ流の不条理の英雄といふ昂揚したポーズだ、シーシュポとして生きるには、じつはとんでもないロマンティスムが必要ぢやないかな。ぼくは疲れたんだ、Je suis fatigué だ」――。

今の私としてはいささかの照れくささなしには読めないのだが、二十代の私は照れなかった。この世の中にぴったりと貼り付いて生きているように見える人びとを、二人だけの心の掟によって笑い、からかい、裁く。そんな共犯関係。憧れた。普通のロマンス以上の快楽的関係だと思った。

また、「あなた」のこんな独白にも激しく共感した。

単調で平穏な遊戯、ガラス張りの独房のなかから外界を入念に眺め、虚構の世界を歩きまはることからなる遊戯、少女時代から現在にいたるまで、それがあなたの生活のすべてだつたといへるだらう、それ以外にあなたはなにをしたのか? いや、あなたにとつてそれは生活の喪失を内容とする生活だつた、さういつたはうが適切なくらゐだ、あのバヴァロアのやうな家のなかの、甘い、監禁された生活……だがあなたはあなたのまはりに充満してゐる生活をごきぶりのやうな貧欲さで喰ひあらして穴をつくつてゐた、その穴のなかにとぢこもつてあなたは、自分の溶かした世界の汁を審美者風の舌でなめまはしてゐたのだ……。

日常会話の中に aimer とか formidable といった言葉がさしはさまれ、カントの《物自体》やランボオの『地獄の一季節』やサルトルの『嘔吐』、ラクロの『危険な関係』といった言葉がちりばめられ、ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンなどモダンジャズに関する傾倒ぶりもほのめかされてゆく。

何と言うか、ペダンティックという言葉が一番近いか。文学、哲学、芸術方面への私的趣味を思う存分、じゃんじゃん、小説の中に取り込んでいる。絢燗と言っていいくらい(作者自身は「一種の fetishism の小説」と説明)。

一九七一年の『夢の浮橋』も、何と優雅な小説なんだろうと面白く読んだ。それなのにその翌年のエッセー集『迷路の旅人』を最後に倉橋本を読まなくなってしまった。どういう風の吹き回しか、英米のユーモア小説やミステリのほうへと関心が移ってしまったのだ。超俗的なものへの憧れより、俗気のおかしさのほうに救いを求めたのかもしれない。あるいは生来の照れ性が本格化したのかもしれない。今や何事に関しても、自分自身に対しても、隙さえあれば笑いものにするというのが習性じみてきてしまったのだが……。

久しぶりに、ほんとうに久しぶりに再読した『暗い旅』は笑えなかった。茶化せなかった。若い頃とは少し違う角度からだが、やっぱり引き込まれて読んだのだ。「あなた」で話を進めてゆくこと、時制の交錯のさせかた、旧かなづかいの文章、全編にちりばめたペダントリー……といった冒険的なスタイルを最後まで破綻なく貫いてしまった、その底力にホレボレさせられた。

裕福なインテリ家庭の美少女と美少年が主人公という設定から、この小説を少女趣味小説として見ても構わないと思う。若い頃は気づかなかったけれど、私に限って言うなら、この小説はおもに私の内なる少女趣味の琴線をかき鳴らしたのだ。どういうものに対して快く好もしい甘さを感じるかは人それぞれだ。二十代の私は『暗い旅』に、めったにない種類の快く好もしい甘さを感じたのだ。ふわふわではなく、硬質の、ヘンな少女趣味だってあるのだった。

ほんとうにめったにないものだけれど。

【この書評が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

暗い旅  / 倉橋 由美子
暗い旅
  • 著者:倉橋 由美子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(265ページ)
  • 発売日:2008-09-04
  • ISBN-10:4309409237
  • ISBN-13:978-4309409238
内容紹介:
恋人であり婚約者である"かれ"が突如謎の失踪を遂げた。"あなた"は失われた愛を求めて、東京から、鎌倉そして京都へと旅立つ。切ない過去の記憶と対峙しながら…。壮大なるスケールの恋愛叙事詩として、文学史に燦然と輝く、倉橋由美子の初長編。「作者からあなたに」「あとがき」「作品ノート」収録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

文學界

文學界 2009年4月

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
中野 翠の書評/解説/選評
ページトップへ