本文抜粋

『蚊が歴史をつくった: 世界史で暗躍する人類最大の敵』(青土社)

  • 2023/06/30
蚊が歴史をつくった: 世界史で暗躍する人類最大の敵 / ティモシー・ワインガード
蚊が歴史をつくった: 世界史で暗躍する人類最大の敵
  • 著者:ティモシー・ワインガード
  • 翻訳:大津 祥子
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(544ページ)
  • 発売日:2023-05-26
  • ISBN-10:4791775481
  • ISBN-13:978-4791775484
内容紹介:
蚊の存在は、はるか昔より人類史に大きな影響を与えてきた。この耳障りで不快な虫が人類の歴史に与えたインパクトを明らかにする。

はじめに

私たち人類は、蚊と交戦中である。一一〇兆匹の蚊から成る、群がっては消費し尽くす敵軍は地球上をくまなく巡回し、出没しない地域は南極大陸、アイスランド、セーシェル諸島、仏領ポリネシアの小さな島々のごく一部のみである。このブンブンうなる虫軍団のメスの刺咬戦士は私たち七七億人の人類に対して、命を奪うか衰弱させる一五以上の生物兵器で武装し、怪しげ且つ往々にして自身にも不利益な防御能力を活用する。現に、蚊の容赦ない襲撃を防止するために、蚊よけ製品、スプレー、その他抑止のための私たちの防衛予算は急増し、年間で一一〇億ドルに達している。しかも蚊による非常に危険な攻撃と人道に対する罪は、むこうみずな自由奔放さを伴いながら続いている。我々が反撃することで蚊による毎年の犠牲者数は減少しているものの、蚊は依然として人類にとって地球上で最も危険なハンターである。昨年〔二〇一八年〕の殺害数は他に比べるものもなく八三万人だった。分別があり賢明な我々ホモ・サピエンスは自分たちの種を五八万人殺害し、二位に甘んじた。

ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団は二〇〇〇年の設立以来、四〇億ドル近くを蚊の研究に寄付し、人類に死をもたらす可能性が最も高い生物を特定する年次報告書を発表している。このランキングは接戦ですらない。私たちを食い物にする生物たちの頂点に永久に立ち続ける、ヘビー級のチャンピオンは蚊なのだ。〔同財団の年次報告書では〕二〇〇〇年以降、蚊を原因とする人間の死者数は年間平均で二〇〇万人前後となっている。私たち人間は一位に大差をつけられて四七万五〇〇〇人であり、後にはヘビ(五万人)、イヌとサシチョウバエ(それぞれ二万五〇〇〇人)、ツェツェバエとサシガメ(それぞれ一万人)が続く。獰猛な殺し屋と言われる動物やハリウッド映画でよく目にする動物は、ランキングのずっと下の方に登場する。ワニは一〇位で、毎年一〇〇〇人を殺害している。この後に続くのはカバが五〇〇人、ゾウとライオンはそれぞれ一〇〇人である。名誉をひどく毀損されているサメとオオカミは、共に一五位で、平均して一年間に一〇人の命を奪っているにすぎない。

人類の歴史において、蚊は他のいかなるものよりも人命を奪ってきた。統計に基づく推測では、蚊による死者数は過去の全人類の半分近くとなっている。わかりやすい数字にしてみると、比較的短い人類の二〇万年の歴史を通して、この世に生存した累計一〇八〇億人のうち、蚊によって五二〇億人が殺害されたと推定される。

蚊は人間に直接の危害を加えるわけではない。死と荒廃の終わりなき集中攻撃を生み出すのは、蚊によって伝播される有毒で高度に進化した疾病である。蚊がいなければ、これらの不吉な病原体が人間へと媒介されることはなく、周期的な感染も続かない。それどころか、蚊がいなければ、こうした疾病は全く存在しないだろう。一方がなければ他方もありえない。こうした疾病がなければ、ブドウの種ほどの大きさと重さのこの極悪な蚊も、一般的なアリやイエバエと同様に無害だっただろうし、あなたはこの本を読んでいなかっただろう。つまりは蚊によってもたらされる死の猛威は歴史上の記録からぬぐい去られ、恐ろしくも注目に値するような語るべき話はなかっただろう。非常に危険な蚊、さらに言えばあらゆる蚊がいない世界をしばし想像してほしい。私たちが知っている、あるいは知っていると思っている歴史と世界は、完全に変わってしまい、はるか彼方の銀河にある、見慣れない惑星に住んでいるように感じるだろう。

人類絶滅の最高の請負人として、蚊は大鎌を持った死神―人間を刈り取る者、そして歴史を変える究極の工作員―として、常に歴史の前線にあり続けた。蚊は人類の歴史の形成において、地球上に存在する他のいかなる生物よりも大きな役割を果たしてきた。こうした血生臭くて疫病に苦しめられてきた出来事の中で、複雑にからみ合った私たちの共同社会の歴史から、蚊にさいなまれる年代記の旅にあなたは出かけることになる。カール・マルクスは一八五二年に「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない」と悟っていた。我々の運命を操り決定してきたのは、一貫して強欲な蚊であった。ジョージタウン大学の高名な歴史学教授であるJ・R・マクニールは次のように述べる。「下等な蚊と思慮のないウイルスが私たちの国際情勢を方向づけることができると考えるのは、人間の自己愛にとっては無礼な一撃であるかもしれない。だが蚊とウイルスにはそれが可能なのだ」。歴史が必然性の産物ではないことを、私たちは忘れがちである。

本書全体にわたる共通の主題は、戦争や政治、移動、交易、人間による土地の利用方法の変化のパターンと、自然気候の間における相互作用である。蚊は真空には存在せず、全世界にわたる蚊の支配的な立場は、自然と社会の両方によって引き起こされた歴史上の出来事によって生み出された。最初にアフリカで生まれ、その外に出てから世界各地で歩んできた歴史の跡まで、私たち人類の比較的短い道のりは社会と自然の間における共進化の結果である。私たち人類は、(非自発的にせよ、それ以外の理由にせよ)人の移動や密集、各種圧力を通じて、蚊媒介感染症の伝播に大きな役割を果たしてきた。歴史的に、植物の栽培化と動物(病気の宝庫である)の家畜化や農業の進歩、森林伐採、気候変動(自然のものと人間が助長したもの)、そして世界戦争や交易、移動の全てが、蚊媒介感染症の蔓延に最高の生態環境を培う役を務めてきたのだ。

しかし歴史学者やジャーナリスト、そして近代の記憶の中で、流行病や疾病は、戦争や征服、超人的能力を持つ国民的英雄(最も多いのが伝説的な名将)と比べて精彩を欠いている。書物におけるこれまでの記録は、帝国や国家の運命、大きな戦争の結果、歴史的な出来事の方向性が、各支配者や特定の将軍、あるいは人間の機関に関係する大きな事柄(政治や宗教、経済など)にあるとしてきたことで、バランスを欠いていた。蚊は文明に関する進行中の過程における活発な主体ではなく、蚊帳の外の傍観者として考慮の対象外とされてきた。このようにして、蚊は歴史の流れを変える影響力とインパクトを持っていることを無視され、名誉を毀損されてきた。蚊、そして蚊媒介感染症は商人や旅行者、兵士、移住者に同行して世界中を巡り、人間が生み出したあらゆる武器や発明よりもはるかに多くの死をもたらしてきた。蚊ははるか遠い昔から容赦ない猛威によって人間を待ち伏せし、現代世界の秩序に消すことのできない爪痕を残してきた。

傭兵の蚊たちは疫病から成る軍隊を召集して世界中の戦場に忍び寄り、戦いの状況を一変させることで、しばしば結果を左右してきた。蚊は繰り返し、その時代における最強の軍隊を蹂躙した。人類学者で著述家としても高い評価を受けているジャレド・ダイアモンドの言葉を借用するならば、果てしなく続く軍事史の書棚と、名高い将軍をもてはやすハリウッドの派手な宣伝によって、控えめな真実がゆがめられているとのことである。蚊が媒介する感染症は、一国の兵役に動員可能な人間の総数、軍需品、あるいは才知にたけた希代の将軍たちの頭脳よりもはるかに危険だった。塹壕を進んで歴史的な戦場を見て回る際に、病気の兵士は死亡した兵士よりも軍事機構にとっては重荷となることは覚えておく価値がある。兵士を交代させる必要があることに加えて、貴重な人員もそちらに割かれてしまうからだ。戦争状態において、蚊媒介感染症は戦場に多数存在する重荷であり、勝敗の決定打であった。

私たちの免疫系は、居住している地域の環境に見事に適応している。一方、人間の好奇心や欲、発明、思い上がり、そしてあからさまな侵略によって、微生物が世界的な歴史上の出来事の渦の中へと押し出される。蚊にとって国境―障壁の有無を問わず―は無意味だ。進軍する軍隊、好奇心の強い探検家、土地を渇望する入植者(そして彼らが所有するアフリカ人奴隷)は遠い地へ新たな病をもたらした一方で、征服しようとした外国の地の微生物に打ち負かされもする。蚊が文明のあり方を変えるにつれて、人間は図らずも、全世界に及ぶ蚊の強力な戦力投射能力〔領土外における軍隊展開能力〕への対応が必要となった。結局のところ厳しい実情としては、蚊は他のどの人類以外の存在よりも、人を食いものにする最も危険な生物として人類の歴史上の出来事を推し進め、私たちの現在の状況を作りだしたのである。

ところで、本書を手に取っているほとんどの読者には共通点が一つあると言っても過言ではないだろう。それは蚊に対する心からの嫌悪である。蚊をたたくことは万国共通の気晴らしであり、人類の夜明け以来続いている。アフリカにおけるヒト科の祖先は、進化を始めてから現在に至るまで、あらゆる時代を通じて、生き残るために、一筋縄ではいかない蚊との死闘にがっぷり組み合ってきた。このように一方的で勢力均衡が取れていない戦いの状態において、これまでは我々に勝ち目はなかった。極めて有害で不屈の宿敵は、その絶え間なく続く猛烈な吸血、打ち破られない恐怖による支配を根絶しようとする私たちの取り組みを、進化的適応を通じて繰り返し阻止してきた。蚊は依然として世界各地の破壊者であり、そして世界屈指の殺人鬼であり続けている。

蚊との戦いは、まさに全人類を挙げての戦いなのだ。

[書き手]ティモシー・ワインガード
蚊が歴史をつくった: 世界史で暗躍する人類最大の敵 / ティモシー・ワインガード
蚊が歴史をつくった: 世界史で暗躍する人類最大の敵
  • 著者:ティモシー・ワインガード
  • 翻訳:大津 祥子
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(544ページ)
  • 発売日:2023-05-26
  • ISBN-10:4791775481
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蚊の存在は、はるか昔より人類史に大きな影響を与えてきた。この耳障りで不快な虫が人類の歴史に与えたインパクトを明らかにする。

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