自著解説
『怪を志す―六朝志怪の誕生と展開―』(名古屋大学出版会)
丸善名古屋本店で定期的に開催している名古屋発の人文書フェア「名古屋の大学の先生が選んだおすすめの人文書フェア」。第7回の選書・コメントにご協力いただいた佐野誠子先生による、『怪を志す』の自著紹介を公開します。
帯の惹句には、「志」の字の上に「しる」とルビを打ってもらったが、それだけでは足りなかった。しかし、思い出してほしい。陳寿の『三国志』(あるいは羅貫中『三国志演義』でもよい)の「志」も別に、魏・蜀・呉それぞれの国の天下統一への志を述べたわけではなく、三国それぞれの歴史記録(志=誌)である。
そして、歴代の史書、正確には班固の『漢書』から、「志」というカテゴリがある。これは「本紀(皇帝の伝記)」、「列伝(人物伝)」と同等のカテゴリで、法律や経済、礼楽など、人物本位の紀伝体史書では、どうしてもこぼれおちてしまう制度等を記録した部分である。そこに五行志が設けられた。
五行思想は、木・火・土・金・水、五つの要素の相剋・相生の理論である。この五行思想および陰陽思想によって、さまざまな災害・怪異の意味を読み解こうというのが五行志の趣旨であった。何の意味かといえば、天の意志である。天が為政者に与える警告が災害・怪異(合わせて妖異と呼ぼう)だと考えられていた。このような思想を天人感応思想という。
『漢書』が扱う前漢時代には、このような妖異を解釈する学問が盛んであり、『漢書』五行志では、孔子が編んだとされる『春秋』の記事から、前漢まで、あれこれの妖異について、ただ起きたというだけでなく、誰がどのように解釈したのかまでの委細がしるされている。
いっぽう、拙著で扱った六朝志怪は、同じく怪異を取り扱うものの、その怪異の内容も違えば、解釈もほとんどしるされない。その代わりに五行志ではあまり存在感がなかった人物が登場して、その人物に起きた不思議なできごとが、あるがままに、簡潔な文章でしたためられている。なぜこんな本(記録)をわざわざまとめたのかということを、五行志との比較を通して分析したのが本書の第I部である。
そして、この志怪の枠組みを中国に浸透しつつあった仏教の信者が利用した。遠い国の釈迦やその弟子の前世の事跡や寓話を説くよりも、現実的に、漢人が、観世音菩薩に祈れば、めでたいことが起こり、仏教の戒律を破れば罰があたるという現実的な因果応報を、志怪とほぼ同じ形式で記録した。その六朝仏教志怪の分析が本書の第II部である。
筆者は学生時代の授業で志怪に触れる機会をもち、そのそっけなさに、なんでこんなものを書いたのだろうと不思議に思い、その疑問を解いたのが本書となっている。読者諸賢にもこのヘンテコリンな志怪の世界を本書をお供に味わってもらいたい。
[書き手]佐野誠子(名古屋大学大学院人文学研究科准教授、専門は中国古典文学)
【初出メディア:「フェア図書リスト」2023年6月】
なんでこんなものを書いたのか? ヘンテコリンな志怪の世界
本書『怪を志す』の表紙デザインは気に入っているのだが、書名にはルビをつけた方がよかった。やはり書名を「かいをこころざす」と読んでしまう人が多いのである。中国学の専門家でもそのようなことがあったくらいである。正しくは、「かいをしるす」である。帯の惹句には、「志」の字の上に「しる」とルビを打ってもらったが、それだけでは足りなかった。しかし、思い出してほしい。陳寿の『三国志』(あるいは羅貫中『三国志演義』でもよい)の「志」も別に、魏・蜀・呉それぞれの国の天下統一への志を述べたわけではなく、三国それぞれの歴史記録(志=誌)である。
そして、歴代の史書、正確には班固の『漢書』から、「志」というカテゴリがある。これは「本紀(皇帝の伝記)」、「列伝(人物伝)」と同等のカテゴリで、法律や経済、礼楽など、人物本位の紀伝体史書では、どうしてもこぼれおちてしまう制度等を記録した部分である。そこに五行志が設けられた。
五行思想は、木・火・土・金・水、五つの要素の相剋・相生の理論である。この五行思想および陰陽思想によって、さまざまな災害・怪異の意味を読み解こうというのが五行志の趣旨であった。何の意味かといえば、天の意志である。天が為政者に与える警告が災害・怪異(合わせて妖異と呼ぼう)だと考えられていた。このような思想を天人感応思想という。
『漢書』が扱う前漢時代には、このような妖異を解釈する学問が盛んであり、『漢書』五行志では、孔子が編んだとされる『春秋』の記事から、前漢まで、あれこれの妖異について、ただ起きたというだけでなく、誰がどのように解釈したのかまでの委細がしるされている。
いっぽう、拙著で扱った六朝志怪は、同じく怪異を取り扱うものの、その怪異の内容も違えば、解釈もほとんどしるされない。その代わりに五行志ではあまり存在感がなかった人物が登場して、その人物に起きた不思議なできごとが、あるがままに、簡潔な文章でしたためられている。なぜこんな本(記録)をわざわざまとめたのかということを、五行志との比較を通して分析したのが本書の第I部である。
そして、この志怪の枠組みを中国に浸透しつつあった仏教の信者が利用した。遠い国の釈迦やその弟子の前世の事跡や寓話を説くよりも、現実的に、漢人が、観世音菩薩に祈れば、めでたいことが起こり、仏教の戒律を破れば罰があたるという現実的な因果応報を、志怪とほぼ同じ形式で記録した。その六朝仏教志怪の分析が本書の第II部である。
筆者は学生時代の授業で志怪に触れる機会をもち、そのそっけなさに、なんでこんなものを書いたのだろうと不思議に思い、その疑問を解いたのが本書となっている。読者諸賢にもこのヘンテコリンな志怪の世界を本書をお供に味わってもらいたい。
[書き手]佐野誠子(名古屋大学大学院人文学研究科准教授、専門は中国古典文学)
【初出メディア:「フェア図書リスト」2023年6月】
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