独自の芸風確立への肥やしに
『ドキュメント 日本の放浪芸――小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸』は1971年に日本ビクター株式会社(当時)から発売された7枚組みのLPレコード集である。万歳とその他祝福芸の「祝う芸」、絵解と舌耕芸の「説く芸と話す芸」、盲人芸と浪花節の「語る芸」、香具師による「商う芸」、音曲や猿まわし等「流す芸」の構成で、全国の路傍で演じられた多種多様な漂泊の芸が収録された。同年の日本レコード大賞企画賞を受賞、売上げも良好で、73年には5枚組みで香具師の芸を特集。74年には浄土真宗の僧が講じる6枚組みの「節談(ふしだん)説教」が続いた。77年に発売されたストリッパー「一条さゆり・桐かおるの世界」4枚組みで全四部作が完成した(のちにCDや解説書付きで再刊されている)。
本書は世評も高いこのシリーズが誕生した舞台裏を詳細に探っている。扱ったのが学術的なアーカイブであれば、放浪芸が衰亡の淵にあった70年代の日本の社会状況、モータリゼーションで「路傍」が消滅したとか、娯楽を伝えるメディアが映画やテレビに移行したとかが論じられただろう。ところが本書はそうしない。
「小沢が『放浪芸』に見たもの、求めたものは、何であったのか」と、意図の理解に焦点を合わせるのである。このシリーズで放浪芸の実演にかぶせられる小沢の「語り」には、なるほど主観の色が濃い。肥後琵琶など、早送りにして浪花節と比較しようとするほどだ。
小沢は69年に初の著作である『私は河原乞食・考』を上梓し、それを読んだプロデューサーの市川捷護(かつもり)から声をかけられたという。小沢が属していた新劇は、歌舞伎や新派を否定して、西欧演劇を目指した。けれども大衆の心を摑むには日本の伝統芸能にも関心を持たずにいられない。そこで歌舞伎や新派以外で「徹底的に在来の日本の芸能を調べ上げ」てみた、というのだ。
明治時代以来、日本は音楽にしても西洋音楽を理想視して義務教育に取り入れ、伝統音楽は軽視した。昭和の戦後には反省から文化財保護法が50年に施行されたが、同法は宮内庁式部職楽部のみ正統とみなし、他の雅楽団体を軽視したと、著者は国の文化行政の偏向を批判している。一方小沢は、定住者の民俗芸能を優先する国からは保護を受けずとも、芸を金に換えて暮らしている放浪芸を評価する。著者が小沢に共鳴するのはこの点だ。
評者には別の連想が働く。アルトサックス奏者の故篠田昌已は80年代、やはり放浪芸であるチンドンと出会い、アメリカ出自のジャズとは異なる演奏法に開眼、後世に小さくない影響を与えた。
小沢は放浪諸芸をそのまま継承したのではない。自身の独自の芸風を確立するために肥やしとしたのだ。小沢が73年から2012年まで続けた代表作、TBSラジオのトーク番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の絶妙な口演には、放浪芸が昇華している。
語りと歌の境目のない節談説教に聞き入り、安心して三途の川を渡っていく北陸地方のおばあちゃんたちの顔写真が印象深い。小沢は日本人の忘れられた生と死に触れたのだ。