知性行き詰まり超える「対称性」
駅までの数分を歩くだけで噴き出してくる汗を拭っていると、現代文明への疑問が頭をもたげる。人間は生きものということを基本に置く生命誌としては、原点に戻って考え直したい気がするのだ。そこで『カイエ・ソバージュ[完全版]』である。分冊で読んできた「人類最古の哲学」(神話論)、「熊から王へ」(国家論)、「愛と経済のロゴス」(贈与論)、「神の発明」(宗教論)、「対称性人類学」の五巻をまとめてもう一度だ。大部で高価なのでお勧めしにくいのだが。提案されるのは「対称性人類学」である。狩猟民が動物に対して「倫理的」にふるまったのは、人間と動物の間に対称性を感じていたからであり、その思考は神話に生きている。神話は科学と同じ二項論理を持ちながら、矛盾律ではなく対称性の思考原理に従う。それは、精神医学での「無意識の原理」と重なる。現代は分裂症(統合失調症)を無意識による情動的思考の結果と見て、無意識を抑え込む。しかし神話を読むと、無意識こそが現代人の傲慢な知性の乱用に歯止めをかけるものと見えてくる。私たちの脳は、各領域に特化していた認知領域がつながって「流動的知性」を生んだところに特徴がある。これこそが無意識であり、心の本質であると著者は言う。
人間の特徴は「科学的思考がよりどころとしているアリストテレス論理を使いこなす思考能力のうちにあるのではなく、ふつうの論理を壊す可能性をひめた対称性の論理で作動している流動的知性に見出せる」というわけだ。現代ではすべてが「形而上学化」されて人間の思考が根源の場所を失い、「一神教」、「国民国家」、「資本主義」、「科学」で動くところに問題があるのではないか。
経済は「贈与」と「交換」という対称性、非対称性二つの論理で動くのだが、金融資本主義は、心を伴う贈与を消し、交換で覆いつくし幸福感を奪う。人間とのあいだに「圧倒的な非対称」の関係をもつ一神教の神が、対称性を消して経済も交換だけにしていく役割をはたしたのだ。その中で、キリスト教は「三位一体」という形で聖霊を神の本質とし、対称性をもとり込みながら非対称性社会を進めるという巧みな方法を発明したという指摘は著者ならではのものだ。
非対称化は、国が作られ権力が生まれる場面でも生じる。本来首長は「もめ事を調停し、人々の暮らしに平和をもたらす」役割をもち、権力とは無縁だった。「人間社会には権力の源泉がなかった」のだ。ところが「王」が登場し、しかも当初の王が持っていた神秘性を通して存在した両義性が近代になって失われ、王権は法律的、秩序組織的側面だけを残すものとなった。科学も非対称性を進める。
そこで「対称性の思考を現代に鍛え上げることで、新しい思考の形態を創造」し、現代を見直そうというのである。著者は「空」を理想とする仏教は対称的無意識の発達をめざした思想であり、野生の思考に根を下ろしていると見て、富や権力の蓄積に意味を見ない仏教の力を借りようと考えている。
私が読んだ「野生ノート」である。古今東西の知を飛び歩く著者のあとを追うだけでしんどい。ただ自然、生きものに向き合い、新しい生き方を探ろうとしている者として、ここに行くべき道が見える気がするのである。