書評
『シューレス・ジョー』(文藝春秋)
嘘だといってよ、ジョー
笑っちゃいけない。キャッチボールほど神秘的な交流はほかにないんだ。キャッチボールをやった思い出は消えることがない。相手の目をみて投げるんだから。砂浜野球に没頭した思い出を持つ僕は、一度は書いてみたいのが野球小説。先に取りあげた五味康祐のものとも、阿久悠や赤瀬川隼のとも違う、どっちかといえば、サリンジャーの「笑い男」のようなものを。サリンジャーはどこかでこんなことを書いていた。「野球は西半球で最も悲痛で最も甘美なスポーツである」。W・P・キンセラは、「野球はあらゆるゲームのなかで最も完璧で、ダイヤモンドのように堅固で、真正で、純粋で、貴重だ」といっている。「きみがそれを作れば、彼はやってくる」
自分の農場のヴェランダに座っている、語り手のぼくにどこからともなく声が聞こえる。キンセラの『シューレス・ジョー』はいきなりそんなふうにはじまる。それとは野球場、彼とはタイトルにもなっているシューレス・ジョー。
シューレス・ジョーは一九一〇年代に活躍した実在の大リーガー。名左翼手といわれ、大リーグ在籍十三年の通算打率が三割五分六厘の強打者だった。
そんな大選手が、一九一九年のワールド・シリーズで、八百長に加担して、シカゴ・ホワイト・ソックスの同僚七人とともに球界から永久追放された。ブラック・ソックス・スキャンダルだ。シューレス・ジョーの名が特に長く人々に記憶されているのは、裁判所から出てきた彼を一少年が引きとめて、こう言ったと伝えられているからだ。
「嘘だといってよ、ジョー」
ジョーは一九五一年に他界しているから、もちろんこの小説の出た時点(一九八三年)にはこの世にいなかった。
語り手のぼくはブラック・ソックス・スキャンダルをきかされて育った。父親は若い頃はマイナー・リーグで捕手として鳴らしたことがあるが、第一次大戦で毒ガス攻撃を受けて帰国してからは観る側に回り、負け犬を愛した。野球大好き人間に育ったぼくは、シューレス・ジョーは無実だ、ギャングたちの犠牲者だと言いはってきた。
破産一歩手前で農場をなんとか持ちこたえているぼくなのに、トウモロコシ畑の一画をつぶして球場を作れるものかどうか。妻のアニーにはかると、
「そうよ、あなた、それであなたがしあわせになれるんなら、そうすべきだと思うわ」
で、自力で野球場を作りはじめる。三年がかりで作りあげて、ひたすら待ちつづけた。
ある夏の夜、窓の外を見ていたアニーが言う。
「あなたの芝生にだれかいる」
ぼくは、シューレス・ジョーが、ぼくが作った球場で喜々としてプレーする姿を見、言葉も交わす。さらに球場をせっせとひろげて、ブラック・ソックス・スキャンダルの他の選手たちを迎える。若い頃の父親が捕手として大リーガーたちとプレーする姿もまざまざと見る。
ぼくに見えるだけではない。アニーにも年端のいかない愛娘のカレンにも見える。
農場はいずれは借金のかたに人手に渡る。彼らには見えないだろう。しかし、この小説を読んだあなたには必ず見える。
夢想は、不如意や失意の補償行為だと無造作にいう人がいる。とんでもない。思いの深さのひと言に尽きる。この作品を読んでそのことがわかる人は幸せだ。
一九八九年に映画化された。ぼくを演じたのはケビン・コスナー。題名は『フィールド・オブ・ドリームス』。魔法のようにすばらしい映画だった。
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