書評

『真田太平記 天魔の夏』(新潮社)

  • 2023/11/11
真田太平記 天魔の夏 / 池波 正太郎
真田太平記 天魔の夏
  • 著者:池波 正太郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(519ページ)
  • 発売日:1987-09-30
  • ISBN-10:4101156344
  • ISBN-13:978-4101156347
内容紹介:
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍によって戦国随一の精強さを誇った武田軍団が滅ぼされ、宿将真田昌幸は上・信二州に孤立、試練の時を迎えたところからこの長い物語は始まる。武勇と知謀に長けた昌幸は、天下の帰趨を探るべく手飼いの真田忍びたちを四方に飛ばせ、新しい時代の主・織田信長にいったんは臣従するのだが、その夏、またも驚天動地の事態が待ちうけていた。
真田昌幸とその子の信幸、幸村は、戦国の興亡史に異彩を放つ武将であり、ともに智謀にたけた人物として知られている。武田信玄の麾下(きか)にあった真田昌幸は、武田氏の滅亡後、上信の二州に拠って、北条氏と結んだ徳川家康の攻撃をはねかえし、その武勇をしめした。関ケ原の戦いのおりには長男信幸は徳川方についたが、昌幸と幸村は西軍に与(くみ)し、中山道を経て西上する秀忠の軍をなやまし、関ケ原到着を遅らせたといわれる。

さらに大坂の陣での幸村の活躍は有名であり、秀頼を擁して薩摩へ落ちたとか、真田十勇士などの伝説をうみ出し、史上の一英雄とさえなっている。一方、父や弟を相手に戦い、徳川政権のもとに残った信幸(信之)の方も、その後、幕府の圧迫に耐えて家を守り抜いたわけであり、そのいずれにも戦国武将の一典型がみられるといえよう。

池波正太郎にはこの真田家の歴史に材をとった作品が多く、昭和三十五年に直木賞を受賞した「錯乱」もそのひとつだった。これは松代の領主真田信之のもとへ、幕府から送りこまれた父子二代の隠密の悲劇を描いたものだが、同じく松代十万石の運命をテーマに、「恩田木工(もく)」「信濃大名記」「真田騒動」「獅子」その他の長短篇をまとめている。

これらの作品は、一般によく知られている昌幸や幸村の武勇譚ではなく、生き残った信之をとりまく政治のドラマに光をあてたものだが、その背後に昌幸や幸村が戦国期の歴史にはたした役割を思い浮かべながら、それとは対照的な信之の生き方に、真田家のもつ複雑な立場やその性格をさぐろうとする意識があったと思われる。そして父や弟とはまた違った信之のしたたかさや男らしさに関心を抱いたのではなかろうか。

また昌幸の代から、真田家は多くの忍者を動かし、情報をあつめたといわれる。これは武田の忍者組織をひきつぎ、それを活用して、複雑な状況に対応したのだろうが、真田家はそうした情報・謀略工作にすぐれていたとみなされ、その印象が後に猿飛佐助などの虚構のヒーローまでうむことになった。池波正太郎の作品には忍者ものがかなりあるが、それも初期の真田をあつかった作品の構想中に、多くのアイデアを得たように感じられる。

政治の非情なドラマを描きながらも、ストーリーのおもしろさに意をそそぐ彼にとって、波瀾に富む真田の歴史は、その小説づくりに役立つ要素を多くもっていたのかもしれない。そうみてくると、真田ものは彼の文学のひとつの原点をなしていたとも思えるのだ。

東京の下町に生まれ育ち、芝居の世界にもながく関係した池波正太郎の時代小説は、世話ものふうな肌合いが特色となっている。彼は「鬼平犯科帳」「剣客商売」「藤枝梅安」シリーズなどの連作のほか、主として戦国から幕末へかけての時代を背景に、武士や忍者、あるいは盗賊などの活躍する作品を数多く手がけてきたが、武士の社会を描いても市井ものの味わいがつよく、会話のうまさとあいまって、独特な作風をうみ出してきた。彼は登場人物の男らしさを追究する一方、彼らの日常生活にふれて、それが市井の男女のさりげない日々のいとなみと変わらないことを描いた。

人間は、よいことをしながら悪いことをし、悪いことをしながらよいことをしている。

というのは、「仕掛人・藤枝梅安」の第一集の「あとがき」にある言葉だが、こうした視点は他のテーマをもつ作品にも生かされており、その日常性とドラマチックな構成がたくみに融けあっているところに、彼の小説のおもしろさがある。

「真田太平記」は昭和四十九年一月四日号から昭和五十七年十二月十日号まで本誌に連載された九年にわたる長篇である。初期の真田ものの世界を、あらためて幅ひろく追究したものであることはいうまでもないが、それだけでなく、以後のさまざまな作品の特長をもりこみ、手なれた筆致でまとめあげた大作であり、池波文学の集大成ということができる。

彼がこの小説を書いた理由としては、「後書」にもあるように、それが何より親しみぶかい素材だったからであろう。

そもそも三十年ほど前に、はじめて時代小説を書いたとき、真田家の宝暦年間の御家騒動を背景に、家老・恩田民親(おんだたみちか)を主人公にえらんだのが始まりで、このときに江戸時代の制度・風俗・経済などの勉強をみっしりとやったことにより、つぎからつぎへ、素材が発見できたからだ。

という文章からも、そのことがうかがえる。

さらに「後書」には、執筆を開始する前に、伊那の高遠城址から伊那谷のあたりを何日か旅したおり、向井佐平次という男が脳裡に浮かびあがり、それによって書き出しのイメージがつくられたとある。佐平次は天正十年(一五八二)高遠城が織田軍に包囲されて落城したおり、長柄足軽の一員だったが、真田昌幸配下の女忍び・お江に救出され、以後、真田家に仕えることになる。まもなく武田勝頼が天目山で自刃して、武田家が滅亡するが、「真田太平記」はそのあたりから筆をおこし、真田家の人々の軌跡を中心に、戦国武将たちの動きや、信長から秀吉、さらに家康へと政権の移る時代の流れを追い、最後は元和八年(一六二二)、真田信之の松代移封に到る四十年間の歴史を背景としている。

作者は武田の滅亡後、独立した真田昌幸が、長男源三郎信幸、次男源二郎信繁(幸村)と協力して、真田の武勇を天下にしめし、後にはそれぞれの信念に従って東西に別れ、戦うことになったものの、おたがいに理解しあい、いずれもみごとな生きざまをみせる経過を、錯綜する諸人物の動きの中にたどってゆく。

冒頭に登場し、その後、幸村に仕える佐平次や、兄弟の異母弟といわれる樋口角兵衛、秀吉の謀略で名胡桃(なぐるみ)城主の父を失い、信幸に仕えることになる鈴木右近など、脇役の性格や運命もたっぷりと描きこまれ、作品世界のひろがりをみせているが、それとともに真田の忍者、草の者の活躍が、いきいきと描かれているのが興味ぶかい。

壷谷又五郎、お江らをはじめとする草の者の組織には、佐平次の子の佐助も加わる。彼らは家康のあやつる甲賀忍びと凄絶な争いを展開し、ときには家康の命をねらって行動するが、その描写には作者の忍者ものの手法が充分に生かされている。

主役三人をはじめ、登場人物らの女性関係・父子関係も種々挿入され、中年の信之が才女として名高い小野のお通に思いをよせる話などもあり、史実・虚構をまじえて、戦国から徳川初期にいたる真田家の人々の姿を縦横に描きあげたこの大長篇は、まさに題名の「真田太平記」にふさわしい。作者の特長であるなめらかな筆致が、その長さを忘れさせる作品となっている。
真田太平記 天魔の夏 / 池波 正太郎
真田太平記 天魔の夏
  • 著者:池波 正太郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(519ページ)
  • 発売日:1987-09-30
  • ISBN-10:4101156344
  • ISBN-13:978-4101156347
内容紹介:
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍によって戦国随一の精強さを誇った武田軍団が滅ぼされ、宿将真田昌幸は上・信二州に孤立、試練の時を迎えたところからこの長い物語は始まる。武勇と知謀に長けた昌幸は、天下の帰趨を探るべく手飼いの真田忍びたちを四方に飛ばせ、新しい時代の主・織田信長にいったんは臣従するのだが、その夏、またも驚天動地の事態が待ちうけていた。

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1982年3月12日

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