利用すべき利器か、広範に論じる
英語に言葉遊びとしても傑作な<Nature or Nurture>という成句がある。ナーチュアというのは、ナース(看護師)と同語源で、「養育」が原意。日本語の「氏か育ちか」に近い。その「自然」(氏)に相当するのが遺伝である。善きにつけ、悪しきにつけ、個人の示す様々な性質が遺伝によって決定されるとすれば、「育ち」の中でいくら本人が努力をしても、所詮たかが知れている。人間は生まれながらすべて平等というわけにはいかないではないか。C・ダーウィンの従弟(いとこ)に当たるF・ゴルトンが「優生学」という概念を提唱して以来、この問題は、理念上も、また実生活上も、大きな問題となってきた。自己責任などという概念にも直接絡んでくるからだ。
本書はある意味では、この課題に関して、今後の我々の実践への指針となる回答を用意している、と言ってよいだろう。無論、現代の生物学の世界でも、完全決定論のような考え方はもともと払拭されている。エピジェネティックス(後成的な仕組み)の重要性は、現代遺伝学の最重要課題の一つだし、本書で、回答のキー概念として詳述されるポリジェニックスコア(PGS)という発想も、すでに定着して久しい。PGSというのは、個体の持つ形質の発現に、多く(ポリ)の遺伝子が絡んでいること、またその現象を定量的な方法で解明することと考えればよい。この「スコア」は、ある集団の中での膨大な統計に基づいて、個人に関して算出される指標である。無論「蓋然性」の範囲を超えることはないが。
この問題に対するこれまでの立場は大まかに三つに分類されるだろう。言わば「運命説」とでも言おうか。遺伝の影響を自然なものとして受容する。したがって社会的格差(不平等)も、自然かつ必然となる。もう一つは、遺伝の影響を、社会的な介入によって是正し切ることができる(平等の実現)とする。「努力説」とでも言っておこうか。著者の立場は「もう一つの途」を、PGSに頼りながら確立することである。それによって、個人の将来の「可能性」の幅を見通し、かつそこに社会が打つ手の可能性の判断に豊かに寄与できることになる、とされる。もっとも、この立場も、広い意味での社会的介入による是正という立場の一つではないか、という議論はあるかもしれない。著者は、別の途として主張すると考えられるが。
「打つ手」に関しての詳しい説明は、読んでいただくほかないが、遺伝学は社会的平等の実現や格差是正の敵ではなく、「利用」すべき利器なのである。それは、それなしでは見過ごされてしまうリスクを正当に評価し、無駄な社会的介入(これまでの多くのものが、その批判に相当する)を排除できるからだ。無論著者は、望ましくない方向へのPGSの利用の危険にも、積極的に言及する。
いずれにせよ、著者の筆は、最新の遺伝学の前線から、社会学、政治学、正義論、教育学など、極めて広範な次元に及んでおり、考究の幅、深さも充分で、論の運びは説得的である。上のような要約が頑迷な「科学主義」の亜流という印象を与えるとすれば、それは評子の書き方の拙さで本意ではない。その意味でも、一読に値する書としたい。