「男女不平等」の慣習、現代社会でも
自転車に乗ると、行動範囲がうんと広がる。自分の力だけで、遠くまで楽に移動できる。自転車は生活のさまざまな場面で助けてくれる。都市では幼い子供を専用シートに乗せた“ママチャリ”をよく見かける。「ママ」に限らず、保育園に通う子供の送迎や食材の買い物などに自転車は欠かせない。最近は電動モーターが補助してくれるものまである。なんて素晴らしい乗り物だろう。本書は自転車と女性の歴史についてのノンフィクションである。原題は「REVOLUTIONS」。革命。しかも複数形だ。副題の「HowWomenChangedtheWorldonTwoWheels」を直訳すると、「女性たちはいかにして二つの車輪に乗って世界を変えたのか」。ちょっと大げさ? いやいや、女性たちは自転車に乗って革命を起こし、自転車は女性たちの革命を助けたのです。ただし、この本にママチャリは登場しないけれど。
19世紀の後半、西ヨーロッパで現在の自転車の原型が登場すると、たちまち上流社会で流行する。女性たちも自転車に乗ろうとした。しかし、それを邪魔するものがあった。ひとつは保守的な人びと。女性が自転車に乗るなんて・はしたない、と彼らは言う。女性は家の中でおとなしく淑やかにしていなさい、と。
道徳面だけでなく、健康にも悪いと主張する医師も少なからず。自転車に乗ると、女性は心身を病むというのだ。サドルに跨がるのがいけないとか、歩き方がおかしくなるとか、猫背になるとか。顔が変形して「自転車顔」になると主張する医師もいた。自転車顔ってなんだ?
もうひとつ、自転車に乗ろうとする女性たちの前に立ちはだかったのが、服装の問題である。当時の上流階級女性といえば、コルセットでウエストを締め上げ、クリノリンで大きく膨らませたロングスカート姿。これでは裾が車輪やチェーンに絡まって危ないし、息も満足にできない。
そこで「合理服」が登場する。ズボンですね。これがまた大反発を巻き起こす。男みたいな恰好して、というわけである。合理服を着ることで女性たちは締め付けから解放された。自転車に乗ることで、家と古い因習から解放された。まさに革命だ。自転車に乗る女性たちに石やレンガが投げつけられたというから、ほとんど命がけである。それでも彼女たちは自転車を降りなかった。行きたいところに行ける開放感と、空を飛ぶようなスピードの快感は何物にも代えがたい。自転車は自由だ。
人種差別という壁もあった。19世紀末、アメリカの自転車愛好家団体は参加資格を白人だけに限定した。それに抵抗する非白人の女性たちがいた。団体が差別をやめるのは、わりと最近のこと。
興味深いのは自転車と女性解放運動との結びつきである。「サフラジェット」と呼ばれた、女性参政権獲得のためには実力行使もいとわない活動家は、自転車を活用した。ペダルをこいで東奔西走。集会に参加したり、情報を伝えたりした。上流階級が所有する空き家に放火したり、郵便ポストにインクや可燃性液体を注ぎ込んだりするときの移動手段も自転車だった。逃げ足は速い。
第二次世界大戦のレジスタンスでも自転車が活躍した。自転車嫌いのヒトラーは自転車利用を禁じたが、占領されたオランダの女性は隠した自転車で反ナチスのパンフレットを運んだ。のちに『第二の性』を書くシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、レジスタンスの活動家でこそなかったが、ナチス占領下のパリを自転車で駆け回ることが彼女の個人的な抵抗活動のひとつだった。どうやら彼女が乗っていた自転車は、親友が盗んで、芸術家ジャコメッティ宅の中庭で塗り替えたものだったらしい。サルトルも一緒にサイクリングすることもあったが、彼にはあまり向いていなかったよう。
さて現代、ひとりで自転車に乗って世界を旅する女性たちもいる、女性の自転車競技もある。しかし、男女が平等になったとは言いがたい。たとえば男性が冒険に出ようとすると英雄扱いされる。だが女性が同じことをしようとすると、賞賛や励ましよりも、まずは「安全か?」と問われる。「旅行計画を詮索され、遭遇するかもしれない危険の数々をあげつらわれ、子供を産むつもりはあるのかと道徳観までジャッジされる」。相手を心配するふりをして、本音は男の領分を守りたいだけ。まさにおためごかし。
女性の自転車レースも増えてはいるが、賞金額や待遇などは男性に比べて大きく劣る。ほかのスポーツでも一部を除くと同様だろう。現代社会に自転車という補助線を引くと、不平等があちこちで浮かび上がる。宗教や文化を理由に女性が自由に自転車に乗れない地域もある。
この補助線を現代の日本にも引いてみよう。いまママチャリは歩道から追い出され、車道では邪魔者扱いされている。個人の行動範囲を広げ、環境への負荷も少ないのだから、専用走行帯や駐輪場を整備するなど、もっと優遇すべきなのに。もしかして、自転車に乗るママたちへの差別と反感があるのだろうか。