芸能都市・東京での青春回想記
演劇・芸能評論の第一人者による回想的エッセイ集。直近に観た作品への言及を落語の落ちのように使い、そこから連想した過去の記憶を逆に枕に配して、戦後の東京の芸能・演劇シーンを彩った名人、名優、名演出家などの思い出を語っていくという構成だが、全部を通して読むと東京育ちの昭和の子供がどのようにして演劇評論家へと「自己形成」を遂げたかがよくわかる。そもそもの始まりは一九四七年四月に私立の麻布中学に入学したことだった。「戦後の復興未だしの時代で、昼休み時間に屋上にあがるとはるか東京湾まで一望できて、勝鬨橋の開閉するさまが眺められた」
山の手出身の著者はここで初めて下町出身の早熟な級友たちと出会い、文化的な感情教育を受ける。「何人かの下町住まいの悪友の手引きで、放課後、映画や芝居、日本劇場のレビューや寄席をのぞく悪さを覚えた。(中略)そうやって観てきた感想を、翌日の休み時間の教室や、ときには授業をさぼった屋上の片隅で、熱っぽく語りあうのだ」
こうした山の手育ちと下町育ちの生徒の≪相互教育≫こそが東京という特殊な芸能都市の重要な要素なのである。この相互教育では生意気なスノッブが先生役となる。「そんな語りあいの場で、私たちの意見を幼稚な論理だと鼻であしらう嫌な奴(やつ)がひとりいた。/(中略)私がまだ能を観たことがないのを知ったその嫌な奴は、『能も観たことのない人間に、芝居が語れるか』と軽蔑しきった調子で言いはなった。かっとなって、その日のうちに水道橋の能楽堂にかけつけた」
ことほどさように、知の動機となるのは、相手が列挙した作品を「観て(読んで)いない」という屈辱感である。「文学青年たらんと気取っていた中学から高校にかけての時代、岩波文庫緑帯(近代・現代日本文学)の全巻読破を試みて、七割方達成したのではなかったか」
しかし、こんな調子で演劇、演芸、映画に惑溺していれば当然ながら大学受験には失敗し、親のすねをかじりながら「ちょっとした無為徒食の文学青年を気取って」安酒場に出入りするようになる。そのうちに、そこで知り合った演劇青年のつてで演劇、芸能の道に進んでいくことになるが、地方出の一人暮らしの友人たちは親がかりの著者をうらやましがった。著者は遂に「君たちみたいに自由がない」とぼやいた。
そんな地方出の友人に、貧しい一人暮らしが耐えられなくなり、故郷に帰った者がいたが、一年足らずで東京に舞い戻ってきた。「なんでも後楽園球場のプロ野球のラジオ中継をきいていたら、芝居の効果音みたいに遠く電車の走る音がする。ただそれだけのことで、東京での一人暮しがなつかしくなって、矢も盾もたまらず、兄貴のオートバイを無断で質に入れ、身ひとつで家出してきたという。/自由な一人暮しはできなくても、東京に住んでいることだけで得るところ大の、地方との格差が存在した、六十年ほど前はそんな時代だった」
ちなみに、「友達」というこのエッセイの書き出しは「八十歳になって、生まれて初めて一人暮しをすることになった。六年前、五十年連れ添った荊妻を失って、万(よろず)やむを得ずの一人暮しだ」である。
東京という「芸能都市」の思い出が満載された珠玉の随筆集である。