心/意識 成立の過程に迫る
心や精神は、いつ生まれて、どう考えられてきたのか。こういう存在は、モノとしての実体がないのに、だれでも知っている。これはかなりヘンなことではないか。心/意識は自分の中に閉じられていて、そこにしか「ない」。ほんとうにそうなのだろうか。本書のタイトルだけを見て内容が推測できる人はほとんどいないであろう。著者の表現によれば本書の内容は「意識の哲学史」である。それ自身を含めて、全宇宙をその中にとりこみ、なおかつ自己の中にしかないと思われる心/意識、そういうヘンなものがどうして成立してきたのか。本書は二部構成で、第Ⅰ部は西洋、第Ⅱ部は日本の心を扱う。
第1章は「心の発明」で、舞台はギリシャ、それもホメロスである。そこからソクラテス/プラトンに至る間に、大きな変化が生じた。ホメロスの時代、ヒトの行動は神々が直接に支配し、風のように動き回り、出入りするものであったプシュケー(心)を、現代のわれわれの考えに近い心/意識にしたのがソクラテス/プラトンで、そこに西洋哲学の基礎が置かれる。
続いて第2章は「意識の再発明と近代」。孤独な明滅する心としてのデカルト、それに耐えられないパスカル、空虚な形式として心を規定するカントと続き、第3章は「綻(ほころ)びゆく心」で、意識を流れとしてとらえるフッサールに至って、意識の単独性は解体し、綻び始める。ハイデガーにおいて意識は生命とネットワークに回帰する。
そこから第4章「認知科学の心」へと論議が進む。過去ではなく現在の哲学を知りたければ、この部分から読んでもいい。
最初に「認知科学の誕生」として言語・神経・主観性の三つの流れが指摘される。フレーゲ、ヴィトゲンシュタインによる言語論理からコンピューターの誕生、神経科学とコンピューターの類比、こうした機械論的なアプローチによって、むしろあぶりだされてしまう「機械のなかの幽霊」としての主観性、という三つの流れの解説の後、「生命的な心」としてフランシスコ・ヴァレラの哲学が紹介される。続いて「意識を身体という構造が可能にする現象であることを追究した」メルロ=ポンティに至って、第I部が終わる。
第Ⅱ部は日本編で、その冒頭にはこうある。「私たちは、西洋の心の哲学史をめぐる長い旅をしてきた。この長い旅の果てに、現在の私たちの心があると本書は考えている。しかし一方で、私たちはこのような心を、実は最初からすでに持っていたのではないかとも思える。長大な時間をかけて、心はその原初の姿にまで還ってしまったのではないか。そのような疑念が湧いてくる」
日本編の最初に第5章として扱われるのは「日本の心の発生と展開」として「神話の起源と心の原初」、続いて「『万葉集』から『古今和歌集』へ」の心の断絶的な移行である。第6章は「夏目漱石の苦悩とユートピア」と題して漱石の世界が扱われる。いわゆる近代的自我に対する漱石の苦闘は周知のとおりであろう。終章は「拡散と集中」と題され、精神の歴史とはその往復であったとする。
久しぶりに大きな論考を読んだ気がする。将来が明るく見えた。