真の事実と、記録された事実
江戸時代、漢城(ソウル)に入った日本人はまことに少なかった。朝鮮は琉球の漂流民を漢城の施設に入れることはあっても、日本人を都に近づけたがらなかった。倭寇や豊臣政権との戦争経験から、日本人を警戒していたからである。だが、一度だけ、漢城に到達し、王宮にまで入った日本人の一行があった。1629年、対馬藩宗氏が遣わした僧・玄方(げんぽう)を正使とする使節である。以前から対馬の宗氏は偽の国王使を仕立てており、玄方たちも「国王使」を称して漢城入りを強硬に主張。漢城に入った。本書はこの時の重要記録を活字化し現代語訳し解説したものである。日本側の正使・玄方と朝鮮側の応接役・鄭弘溟(ていこうめい)の双方のまとめた記録だ。日本と朝鮮の歴史を考えるうえで、基本文献とすべき貴重な記録だが、これまで専門家の知識にとどまっていた。現代語訳などもなく、簡単に読めるようには、なっていなかった。本書の二つの記録と「御上亰之時毎日記」(『近世日朝交流史料叢書Ⅲ』収録予定)の三点をあわせて読むと、近世で唯一、日本側使節が朝鮮の首都に到った時の外交現場の凄まじいさまが浮かび上がる。
当時の朝鮮国王・仁祖(じんそ)は、とにかく日本人は都に接近してくれるな、との心情であった。玄方たちが朝鮮王宮に入り、国王に拝礼するときも、宮殿の「あま(雨)戸」は開かず、いるはずの国王はおらず、庭で拝礼。これに玄方たち日本側が「日本人を御なぶ(嬲)り候か」と怒り出す修羅場があった。それでも、朝鮮側が日本使節を王宮に迎えたのは、この時、北から女真族の侵攻をうけていて、さらに南からまた日本が出兵してくれば、滅亡の危機となるからであった。朝鮮側の記録からは、日本側が、漢城に行かせてくれなければ対馬に帰る、そうなると女真族討伐の名目で日本の朝鮮再出兵もあり得ると、揺さぶりをかけた様子がわかる。実は、この時、対馬藩宗氏も有力家臣・柳川調興(しげおき)との対立を抱えており、朝鮮外交で成果を出さねば、対馬の島主の地位も安泰とは言えぬ事情があった。
外交は時として複雑怪奇な力関係で動く。朝鮮は追い詰められ、対馬藩宗氏もお家の事情を抱え、異様な外交力が働いて、日本人一行の漢城行きが実現していた。外交記録とは奇妙なものだ。王宮に朝鮮国王の姿はなかったのに、玄方は記録にそうは書かない。国王は玉簾(ぎょくれん)のなかに座っていて宮殿のなかに入って自分は拝礼したなどと事実と異なる希望的事実を記して既成事実化し、外交上の利益を得ようとした。歴史学では、一次史料が重んじられるが、当事者の利害関係から、一次史料であればこそ嘘が書いてある場合も、しばしばある。この点、対馬の内部資料として記されたであろう「御上亰之時毎日記」には事実に比較的近い内容が書かれている。
外交現場には、正真正銘の事実と、そうあってほしい事実と、記録された事実の三つがある。日韓関係に限らず、あらゆる外交は、そういう異様な事実関係の上で成り立っている。このわきまえなしに、外交はできない。いたずらに感情的になったり、主観的な見方になったりするのも禁物である。このように既に歴史となった外交現場の記録を読むのは現代人にも有益だ。特に現役外交官には一読をすすめたい。