行き当たりばったり戦法で周囲味方
J・J・ギブソンが創始した生態心理学の、行為主体と環境とが<ひとつのシステム>を作りあげるという考え方を受け継いださまざまな分野の研究者が、「わたしたちがどう生きるのか、何をなすべきかを考える始点は、環境に取り囲まれた存在の生態学的事実に求めなくてはならない」と考えて本シリーズを立ち上げた。身体の拡張性に目を向ける、その第一巻のテーマがロボットであるところがなんとも興味深い。身体は、人体に止まらないのは勿論、生体である必要もないのだ。それにしても、ロボットを意識して読み始めた途端に「なにげなくとか、行き当たりばったりに……」という言葉が出てくるのには戸惑った。だが、これこそキーワードなのだ。例としてあげられるのが<お掃除ロボット>だ。使っている方は、「『あまり考え込むことなく、まわりに半ば委ねてしまおう!』という行動スタイル」と言われて納得するだろう。ロボットのために部屋を片付けたことを思い出しながら。
著者の考えるロボットは、この「まわりを味方にする」という特徴をもつ。典型例が「ゴミ箱ロボット」だ。ゴミ箱の姿でヨタヨタ歩くだけで、ゴミを拾うわけではない。これを子どもたちの遊ぶ広場に置いたところ、気がついた一人がゴミを放り込んだ。そこで箱はペコリとお辞儀をする。そしてたちまち箱はゴミでいっぱいになったのである。
このゴミ箱に、「冗長な自由度を抱え、それを上手に克服しながら、環境の変化に柔軟にふるまう」「環境に対して自らの身体を開きながら、ある課題に向けて、まわりと<ひとつのシステム>を作り上げている」という生きものっぽさがあるかららしい。次の課題は、これを社会的な存在にすることだ。
そこで、背骨を四つ積み上げた上に頭をのせたロボット、アイ・ボーンズをつくり、街角でティッシュ配りをさせる。ロボットをつくり込まずに遠隔操作で動かすと、自分がロボットの気持ちになり、「自分のなかに閉じていては、自分の身体の状態でさえもうまく把握できない」ことが分かる。とりあえず動いてみることが大事であり、そのぎこちなさこそが周囲の人の役割を生み出し、ロボットは街にとけ込んでいくのである。
身体の拡張に重要な役割を果たす言葉の場合も、他者に半ば委ねて目的を果たすという方法は変わらない。テーブルに置いた小型アイ・ボーンズが、周りを囲む子どもたちに昔ばなしをするのだが、時々大切な言葉を忘れる。「おばーさんは川に……えっとー、なんだっけ?」となり、ここで子どもが「洗濯」と言えばそれに応じて話は進む。子どもはとても楽しそうだ。
このようにさまざまな場面で、私たちは人の役に立つことが嬉しく、「『わたしたち』としての一体感はとても心地いい」ということが示される。この時大事なのは「お互いの『自律性』はしっかりと担保されていること」である。
今後ロボットは社会の重要な構成要素になるだろう。機械からの発想は完璧に作り込まれたアンドロイドへの道を歩みそうで恐い。ここに登場する、行き当たりばったりでまわりを味方にする「弱者の戦法」を生かしたロボットならよいかなという気持ちになった。