デジタル世界が変える「現実」
リアリティという言葉は、以前からよく理解できず、どこか気に入らなかった。それがあってこの本を読んだのだが、当然ながら相変わらずわからない部分はわからないままである。リアルという形容詞はカタカナ語としてよく使われる。現実の、とかホンモノという意味だが、それが抽象名詞になったリアリティとはなんだろう(単語が長いので、以下Rと略す)。現実は抽象ではなく、その反対ではないか。日本語で言う現実が、英語でRと抽象名詞で表現されることに、私は違和感を抱いて来たらしい。
本書はRを扱った現代の哲学書なので、伝統的で素朴な「現実」ではなく、シミュレーション(これも長いのでシムと表記する。著者もそうしている)やゲーム、VRやメタバースなども扱う。著者の本音はこうしたものすべての中身が現実だというのである。著者は本書全体を通じて、そのことを論理的に詰めようとする。
現実とはなにかは、古くから議論されてきたが、私が育ってくる頃に一番普通だった古典的な見解は、唯一客観的な現実が存在するという、素朴実在論と呼ばれるもので、とくに科学者はこうした考え方を暗黙に採っていたと思う。それが具体的に危うくなってきたのは、コンピューターの時代になってきたからであろう。そこでは仮想現実や拡張現実、VRやARという言葉が普通に使われる。
私自身も現実とはなにかを考えた時期があり、その時は、その人を動かすものが、その時のその人にとっての現実だ、という結論になった。それを含めてわが国での最近の議論は藤井直敬『現実とは?』(ハヤカワ新書)という対談集に詳しい。脳は日常的に絶えず触れているものを現実と見なす傾向を持っている。私はそう思う。だから数学者は数の世界を現実だと思っているし、お金のことに集中している人はお金を現実だと信じているのである。
そこから考えれば、『リアリティ+』の著者がコンピューターで創りだされる世界を現実だと信じるのは無理もない。いまでは小学校からデジタルの世界に入る子どもたちが、育ってからデジタルの世界を「現実」と信じるようになるのは当然の傾向であろう。
したがって本書はいわば未来の現実を予言しているともいえよう。著者は現在の段階でヴァーチャル、あるいはシムと見なされている世界を現実だと証明しようと努力しているのだが、デジタル世界がもっと普及すれば、著者の言うような「現実」に対する考え方はひとりでに一般化するに違いない。
本書の後半(下巻)の部分で、著者は意識の問題に触れている。この問題では著者の初期の著作の時代から目だった進展はない。
読了して思う。全体像をここまでまとめて論じるのは、恐るべき体力だなあ。もう一つ、文化的な差というのは動かしがたい、ということである。著者は万物流転という言葉を引用してはいるが、本当には深く感じてはいないのであろうと思われる。
なぜなら哲学は言葉を使うので、言葉はその中に時間や動きを含まない。映画ならコマ送りになる。現実を言語という「静的」な手段で叙述しようとすると、現実が停止してしまう。私はそういう印象を受けた。
【下巻】