意外なことに、江戸の徳川政権はローマ帝国に似たところがある。パクス・ロマーナ(ローマの平和)になぞらえてパクス・トクガワーナとよばれることがある。そもそもカエサルらの強者にもまれてアウグストゥス帝が歴史の舞台に登場したように、信長、秀吉らの強者に鍛えられて家康が出てきた。
戦乱なき世を願って天下人になった家康は神君として「平和の仕掛け」を作った。しかし、時を経るにつれて、想定外の問題が出てきて、幕府を苦しめることになる。二六〇年以上もの長期政権だったにもかかわらず、なぜ徳川幕府は崩壊したのか、まさに「家康の誤算」になるのだ。
制度や政策の変更なら、二代将軍すら行っている。参勤交代の制度は、大名にとって負担であるから不満があった。一八五三年にペリーの黒船来航があり、幕府は開国の決断を迫られた。老中の阿部正弘は「人材登用」と「言路洞開(げんろとうかい)」を断行する。誰もが政治について意見を言っていいというのが、パンドラの箱を開けてしまったという。幕府は人材豊富であったにもかかわらず、もはや「神君の仕組み」の崩壊を止められなかったのだ。