ロック、ジャズ、昭和歌謡、洋画、邦画、文房具……片岡義男にひらめきを与える「詩神(ミューズ)」はいろいろあるが、珈琲(コーヒー)もその大切な一つだ。
片岡義男はいろいろなものに耳を澄ます。店で注文をするときの「僕は珈琲」というのは日本語ならではの言い方だ。作者はそういう細かい言語考察などもしながら珈琲を飲む。音にも敏感だ。片岡の頭文字でもある「カ」は「水音が耳に入る距離のところを流れる川のような音だ」と。
珈琲のことを「コーシー」と発音する「寅さん」シリーズにはとりわけ愛着が深い。英語字幕付きで視聴していると、おいちゃんの「馬鹿だねえ!」という名台詞が“Acompletefool!”と訳されていた。「だねえ!」という強調をcompleteで表したのだろうと感心する。
「謎なら解いてみて」という短編小説では、主人公は喫茶店の主人に、この店をこのまま継いでうちの娘と結婚してくれないかと、藪から棒に言われる。ほかのエッセイにも、喫茶店を居抜きで譲られる挿話が出てくるが、これは片岡義男の美学のなかで最も合理的で完璧な方法なのではないか。片岡流哲学の本だ。