書評

『七十人訳ギリシア語聖書 詩篇』(青土社)

  • 2024/06/11
七十人訳ギリシア語聖書 詩篇 / 秦 剛平
七十人訳ギリシア語聖書 詩篇
  • 著者:秦 剛平
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(550ページ)
  • 発売日:2022-07-25
  • ISBN-10:4791774892
  • ISBN-13:978-4791774890
内容紹介:
メシア思想に影響を与えた、重要書。
ダビデからマカベア期までの期間につくられたとされる150篇の詩篇群。成立以来、早い時期からさまざまな言語に訳されたが、その訳のあいだで多くの違いがあり史料的価値が大きい。またメシア思想の核心が描かれ、後世のユダヤ・キリスト教の文化や思想に多大なる影響をあたえた重要書。本邦初訳。

困窮と艱難「何か」を失った者たちの叫び声

世界史のなかで、ユダヤ人はなんとも特異である。古代にはギリシア人もローマ人もいたが、現代の彼らに古代人の面影を探しても、ほとんど形跡はないのではないだろうか。ところが、ユダヤ人となると、昔も今もそれほど変わらないのではないかという印象がある。その最大の原因が、彼らの信仰が変わっていないというところにある。

事の真偽は問わないことにして、一貫していると言えば聞こえはいいが、どこか頑なにしか思えないところがある。その頑なさは周囲の人々からすれば奇異ですらあった。神々のあふれた世界のなかにあって、唯一の神をあがめる心の態度がなぜ生まれるのであろうか。

『旧約聖書』は、人間の心のなかから何かが失われ、それに代わる何かを探し求める物語の記録として読めるのではないだろうか。預言者たちの説教に黙々と耳を傾けるだけの敬虔な民が、今や自分たちの側から思想や感情を語りはじめ、また彼らの敵たちとは異なる唯一神の選びの民であることを感じはじめていたのだ。それらの記録のなかで「かれらの宗教的気分をもっとも明瞭に表現している場所、それは詩篇である」と唱えたのはM・ウェーバーである。かの名著の誉れ高い『古代ユダヤ教』の最後の締めくくりである。

古来の『聖書』はもともとヘブライ語で書かれており、やがて先祖代々の言語にうとくなったヘレニズム期の離散した(ディアスポラ)ユダヤ人のために、次々とギリシア語に翻訳されている。前三世紀頃から、東地中海世界では、もはやギリシア語が公用語のごときものになっていたからである。一五〇編からなる「詩篇」は『聖書』のなかに散在する詩歌が編集されたものだが、これもさまざまな機会にギリシア語に翻訳されている。

ところで、「詩篇」の主旋律を奏でるのは、神から見捨てられた者の嘆きと哀願である。それは個人であれ民族であれ、困窮と艱難(かんなん)のなかにおとしめられた人間の叫びでもある。神はなぜわれわれのもとを去ってしまったのか、あるいは主たる神がなぜわれわれに不運をもたらすのか、詩篇の作者たちは天に向かって問いかけずにいられなかった。そこにはもはや「何か」を失った者たちの叫び声がある。

「神よ、わたしを憐(あわ)れんでください/御慈しみをもって。/深い御 憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。/わたしの咎(とが)をことごとく洗い/罪から清めてください」(新共同訳51)

「神よ、あなたの大きな憐れみにふさわしく、/わたしを憐れんでください。/あなたの豊かな慈悲にふさわしく、/わたしの不義・不正を拭い去ってください。/幾度も、わたしの不義・不正からわたしを洗い清めてください。/わたしの罪からわたしを清めてください」(七十人訳50)

さらにまた、

「彼らは愛すべき地を拒み/御言葉を信じなかった。/それぞれの天幕でつぶやき/主の御声に聞き従わなかった。/主は彼らに対して御手を上げ/荒れ野で彼らを倒された。/子孫は諸国の民に倒され/国々の間に散らされることになった」(新共同訳106)

「彼らは所望した土地さえ蔑視し、/その方の言葉を信じなかったのです。/彼らは自分たちの幕屋で不平・不満を並べ立て、/主の声に聞き従わなかった。/その方はご自分の手を彼らに挙げられたのです。/荒野で彼らを打ち倒すために、/諸民族の中にいる彼らの子孫を打ち倒すために、/さまざまな地に彼らを撒(ま)き散らすために」(七十人訳105)

これらのユダヤ人たちはなぜ神から見捨てられたと感じているのだろうか。それとともに、オリエント列強の圧力に虐げられながら、なお選ばれた民として神の救いを希求したという救世主(メシア)思想の核心も浮び上がっている。

ふりかえれば、ダビデとソロモンの栄光の時代が過ぎ去り、イスラエルの民には神殿が崩壊し祖国を喪失するという苦難がふりかかった。その原因は神に対する自分たちの背信にあると彼らは信じて疑わなかった。この過去の改悛と復興の希望のなかで信仰の共同体としてのユダヤ教が生まれたのである。「詩篇」の嘆きは絶望的でありながら、救済の確信にあふれているかのようである。

敬愛すべき訳者によれば、ギリシア語の翻訳者たちはこぞってヘブライ語のテキストに忠実ではなかったという。もともとヘレニズム・ローマ時代の翻訳者たちには、『聖書』の「聖性」についての確かな概念などなかったと説明されれば、近現代人の錯覚を指摘されたかのようで心地よい思いがする。

キリスト教徒の側から申し立てがあったせいか、ローマ帝国支配下の二世紀には翻訳の見直しがなされたという。しかし、どこまで「聖なる文書」として意識されていたかは問題であり、そもそも「この世に聖なる文書などあるのであろうか?」という訳者のつぶやきには共感するものがある。
七十人訳ギリシア語聖書 詩篇 / 秦 剛平
七十人訳ギリシア語聖書 詩篇
  • 著者:秦 剛平
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(550ページ)
  • 発売日:2022-07-25
  • ISBN-10:4791774892
  • ISBN-13:978-4791774890
内容紹介:
メシア思想に影響を与えた、重要書。
ダビデからマカベア期までの期間につくられたとされる150篇の詩篇群。成立以来、早い時期からさまざまな言語に訳されたが、その訳のあいだで多くの違いがあり史料的価値が大きい。またメシア思想の核心が描かれ、後世のユダヤ・キリスト教の文化や思想に多大なる影響をあたえた重要書。本邦初訳。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2022年9月17日

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