衣料の変化が切り開く新たな歴史学
昨年、二十世紀の歴史学を総括し、『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館)を著して、これからの歴史学の方向性を模索し、新たな歴史学の可能性を追求し始めた著者が、出発点においたのが本書である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆年は2004年)。著者は今から十数年前のこと、柳田国男の『木綿以前の事』に触発されながら、『新・木綿以前のこと』(中公新書)を著し、木綿によって日本の衣料革命がおきたことを具体的に明らかにしたが、今回はそれを踏まえつつも、幾つかの反省をこめ、前近代社会における衣料の変遷を苧麻(ちょま)・絹・木綿の三つの衣料に焦点をあてて探っている。
前著では、中世の民衆衣料を苧麻に代表させ、苧麻から木綿へという変化に注目したのであるが、そこでは木綿登場の歴史的な意味を強調するために、やや単線的な捉え方に陥っていたとして、苧麻や絹などの衣料のあり方を調べ、前近代の衣料の変化を総合的に把握しようと努めている。
苧麻とは苧(からむし)や麻を原材料とする布のことであるが、それを調べてゆくと、その製品が単純に民衆の衣料とのみは評価できず、高級な製品もあること、他方で、絹は支配身分と緊密不可分な衣料であったことなどが明らかになった。そこで苧麻・絹・木綿の三つの代表的な衣料の技術・生産・流通の形態を具体的に探るとともに、それらへの国家や支配層の対応について考察したのである。
衣料が自家用のものかどうか、貢納用であったかどうか、商品となっていたかどうか、という三つの変数に注目し、当時の農業生産力や社会分業の水準を考慮しながら、古代から近世にかけての変遷を探っている。
日本列島に自生する苧麻を素材として作られた布は、広く民衆の衣料として使われるとともに、上製の布は貢納された。これに対して、大陸から入って古代国家によって身分制度的に生産・製造されたのが、高級製品としての絹であり、また中世末期に広く商品生産されたのが木綿であった。この木綿は多方面に使われ、その登場によって、社会は大きく変化していったことが明らかにされている。
それは苧麻の汎用性、絹の身分性、木綿の商品性に注目して、衣料の歴史から日本列島の社会の展開を見通す作業であると指摘できよう。
こうした作業で思い出されるのは網野善彦の仕事である。著者は『20世紀日本の歴史学』のなかで網野の歴史学の方法を激しく批判したが、こうした列島の社会史の作業を通じて、網野の方法ではない、総合的な歴史学の方法に基づいて、新たな歴史学を切り開こうとしたように思われる。
しかし著者は突然の病魔に襲われ、この七月、わずかに初稿ゲラを見ただけで、亡くなられた。したがって本書はまさにその遺著であって、今後の研究の大きな展開が期待されていただけにまことに残念である。
思えば、網野が正統に対する「異端」の姿勢を常に掲げて、戦後の歴史学の牽引車となってきたのに対し、著者は理論と実証に基づく正統な歴史学の道を歩んで、同じく戦後の歴史学を主導してきた。ともにマルクス主義の歴史学を標榜し、歴史学の可能性を強く主張していただけに、今年になって、この二つの「巨星」を失ったことの損失は計り知れない。
本書を読みつつ、衣料のみならず列島の社会の生活や文化に注目しつつ、歴史を広く捉える必要性を痛感した。三つの素材、三つの変数はそれを探る手がかりとなろう。