伊藤博文に「否!」と叫んだ男
ひとりの青年が思い詰めている。あの男を殺さなければならないと。青年といっても、もう満30歳。3人の子供もいる。妻子とは離れて暮らし、末っ子の顔はまだ見ていない。青年の名は安重根(アンジュングン)。あの男とは伊藤博文。初代韓国統監。その前は日本の総理大臣を4度務めた。韓国の植民地支配を進めた男。統監を辞めた伊藤は枢密院議長に就き、プライベートで満州を旅するという。安重根はハルビンで伊藤を撃つことにする。自分が伊藤を殺したら妻子は朝鮮で暮らせなくなるだろうと、彼らをハルビンに呼び寄せる。
安重根による伊藤博文暗殺を題材にした長編小説。蓮池薫訳によるキム・フン(金薫)の文章は、感情の描写が少なく、安重根や伊藤たちの行動を淡々と記していく。ハードボイルド・ミステリのような文体から、安重根の気持ちと切迫した1909年の極東の空気が伝わってくる。
「ハルビン」という題名に考えさせられる。ハルビンは中国東北部、黒竜江省の省都。19世紀末、清国の領土だったところにロシア人が進出してきて、のちには日露戦争の舞台になる。清国、ロシア、日本がぶつかり合う。やがて満州国の建国と崩壊、国共内戦、中華人民共和国の支配下へという歴史をたどる。さまざまな権力者の思惑が交錯した街。この小説は地図を広げながら読みたい。
伊藤は東京から門司を経て大連、旅順、奉天、長春、そしてハルビンへと旅をする。私的な旅行だが、あちこちで歓迎の宴が催される。ロシアの財務長官ココフツォフが伊藤と会談するためモスクワからハルビンへ向かっている。安重根はウラジオストクからハルビンに向かう。安重根が乗った三等席にはロシア人、中国人、日本人、韓人が混在し、みんな厚めの中国服を着ているので、どこの国の人間か見分けるのは難しい。ハルビンまで40時間。
ハルビンが中国(清)とロシアと日本、そして韓国との歴史と関係を象徴する街であるなら、伊藤博文は韓国と日本の歴史と関係を象徴する人間だった。統監として韓国を保護国化し、外交権はじめさまざまな権限を剥奪した。伊藤は自分が間違ったことをしたとは思っていない。遅れた韓国に文明を授けてやったぐらいの気分だ。韓国の次は満州か。
安重根は個人としての伊藤博文を殺したかったのではない。伊藤を殺すことで、あるいは殺そうとすることで、伊藤が体現するものに「否!」と叫ぶ者がいることを示したかった。
伊藤を撃ったあと捕らえられ、大連に向かう護送列車の中で安重根は思う。
……伊藤の国は大連を襲って占領し、大連を足場にハルビンに進出した。ハルビンのプラットホームはおれが伊藤を撃つのに格好な場所だった。伊藤が死ぬのにもふさわしい場所だった。
絞首刑が執行される前、監獄へ面会に来た弟に安重根は「おれの死体をハルビンに埋めてくれ」と伝える。「韓国が独立した際には、おれの骨を韓国に移してくれ。それまではハルビンにいる」と。遺言の影響に怯(おび)えた役人たちは、遺体を遺族に渡さず、旅順監獄構内の墓地に埋めた。
伊藤博文の肖像は日本の紙幣に使われた。安重根の肖像は韓国の切手に使われている。