「記憶の消失」題材、異色ぶり際立つ
記憶の消失は文学が好む題材であり、とくに近年は「政治的記憶喪失」を描くものが印象に残る。国家や共同体が人びとの意識を操作するある種の「メモリサイド」だ。戦争後の集団的記憶喪失を描いたカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』、記憶を消された移民たちを描くJ・M・クッツェーの『イエスの幼子時代』……。どれも不条理な物語だが、記憶をめぐる『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』の異色ぶりは際立っている。物語の背後には黒幕めいた者がいそうな気もするが、そんな詮索はしても無駄だとすぐにわかる。第一部の初めに、ある午後目覚めた私は「私の存在を規定する記憶がすべて消えていることを知った」とある。同室にいた男性も同様で、テーブル上の新聞――ジョナス・メカス監督の訃報掲載――から日付の見当をつけ、「巫女」に会う予定があることを知らされる。一体自分たちは何者なのか?
三つの物語が並んでいるが、時系列順に話が進行する「クロノス時間」的な構成でも、心に生起する出来事を追う「カイロス時間」的な展開でもない。三編の繋がりは、ウルと呼ばれる女性、結婚式へ向かう船、写真を撮ること、踊ること、演ずること、母の死、子ども時代、海、稲妻、犬……。
Ur―が「原初の」を意味するとおり、「私」は自分を<はじまりの女>と認識する。とはいえ、「私」は同行者と一体なのかもしれず、「私は彼という溶媒の中に落ちた一滴の青インクだった」とも言う。
第二部は「女」を主語とする三人称文体に替わる。「女」はどこかの家に入っていき、突如、「自分を、たった今霊魂が宿った瞬間のミルク色の蠟燭のように感じる」。思い出すことを思い出したようだが、それは記憶というよりも、「生涯にわたって輝く月光のように私の上を白く通過」する何かなのかもしれない。
第三部の主語は「ウル」だ。学校らしき場所。黒いフェルト帽の男が現れ、ウルはその他者の目を通じて初めて自分の過去を見る。挿話はパーソナルな色合いを濃くするが、それはウル(だけ)の記憶ではないだろう。
脈絡があるのかないのか判然としない語のつらなり。たとえば、第一部の「私は誰を知っているというのだろう? 考えてみたが犬は吠えなかった」という箇所。「考えてみた」ことと「犬が吠えなかった」ことに逆接関係はない。いや、あるのか? 文脈の関節がぽきぽき脱臼する快感がある。
あるいは、同じく第一部に急に出てくる「~が」という格助詞。韓国語の「は」と「が」に当たるものを、訳者は忠実に訳し分けているはずだ。「私は何々した、言った」という係助詞を使った文体のなかに、突然「私が言った」「私が割って入った」などと出てくる。「~が」は「~」の部分に新情報が入る場合に使われることが多く(「あの人が犯人です」のように)、「私が割って入った」と言われると、文脈上新たな人物が出てきたような印象を受ける。しかも一人称文体なので、「私」が「私」から乖離(かいり)して傍見(かたえみ)しているような効果もある。自分の存在を規定する記憶をすべて失っているのだから当然か。
文章そのものが原初(ウル)の雲海から現れてきたような振る舞いをする、物語の「素」が無限につまった本だ。永遠に読んでいられる。