桜の季節日本的な自由人の生き方
日本人は西行が好きで本も多いが、本書は西行の書物として近年稀にみる良書である。著者の寺澤行忠氏は西行の歌集『山家集』の緻密な校合(きょうごう)で知られる。西行が極めて適切かつ中立的に評されている。西行はその和歌が盛んに写された。だが、それが災いし、西行の和歌は原形が怪しくなっていた。昔は名門近衛家伝来の陽明文庫の写本なら善本と早合点。誤写が二百カ所以上もあるこの本で西行を理解していた。しかし実際には木版本など流布本の内容も軽視できない。特に上賀茂神社の三手(みて)文庫の写本などは誤写が少なく、西行の元の和歌に近づく手がかりになる。これを指摘されたのが寺澤氏であった。だから過去の西行論の修正も丁寧になされている。例えば、藤原定家と西行の関係。かつては対立的にとらえられた。著者は小林秀雄の西行論から西行の魅力にひかれたそうだが、その小林秀雄にしても両者を対立的にみている。しかし著者の書きぶりは愉快なほど公平である。学者は他人の小さな論の傷をみつけると、鬼の首をとったように、その人の論全体が誤っていると言い立てがち。ところが著者は西行について無知に論じた論者や一部誤解の論者に対しても、全体像や本質は「的確に理解していた」と評する。例えば、松尾芭蕉。十分な情報があった時代ではないが、西行理解に本質的誤りはないとする。西行は高度な知識がない人でも理解に到達できる人物であり、論評できると、西行研究の第一人者が言ってくれている。
本書はほとんどの和歌に達意平明の現代語訳を付けている。著者の配慮に敬服する。学問はこのように一般にも専門外にも開かれた普遍をめざすものであって欲しい。西行は専門の歌人でないのに、新古今集に最多九十四首選ばれ、その数は定家より多い。桜の歌が多く、全体の1割を超える。本書は日本人の桜好きに西行の影響を見る。また西行といえば旅だが、目的を二の次にした不要不急の旅。西行が旅で得る心の自由を日本人にひろめた点も指摘する。芭蕉も西行五百回忌で東北へ旅立った。本書からはずれるが、高杉晋作は幕末長州の志士だが「西へ行く人を慕いて東行く、わが心をば神ぞ知るらん」と詠み、東行(とうぎょう)と号して、僧形(そうぎょう)で諸国を旅した。
なぜ西行がこれほど日本人の心の琴線にふれるのか。人生は無常である。栄達長寿など不変を求めても必ず死ぬ。そこで無常を自覚する生き方のほうが自由になれると考えた。官位や定住を捨て、旅に生き、和歌を詠み、人間の完成をめざす道に入り、捨てて逆に自由を得る。西行は日本的な自由人の生き方の典型を示した。そのため共感を得たのである。この死生観は「流れ散り漂い広がる」のを受け容れる。自然に身をゆだね自他を区別せず、宇宙と混然一体化する循環の中に生きる。桜は風に流れ散る。しかし、冬の寒に耐え、春にはまた刹那(せつな)の咲きがある。これを美しいと感じる日本的心性である。ピラミッドのミイラの如く、干からびてでも個体を保ち再生しようなどとは考えない。そういえば「西行をのこして富士は霞(かす)みけり」という巌谷小波(いわやさざなみ)の句を思い出した。この国は霞んでも西行は今も人々の心の中にいる。