書評
『彩雲: 青春戦記』(文藝春秋)
四十五年という年月
今回は、忘れられかけようとしている、僕らの国が戦った戦争のおさらい。五十二年前の昭和十九年から二十年にかけては、総力戦の最終段階だった。二十歳前後の青年は、いやおうなしに戦場に駆り出される運命にあった。若者の前途にあったのが、逃れようもない死だったとは無惨すぎるが、その年々、その年齢の青年に焦点を絞って、これ以上の成果は得られまいと思う傑作小説が書かれている。
森田誠吾の『彩雲』だ。
主人公は文科系の大学予科生である宗之助、春生、透の三人。すでに前年の昭和十八年、文科系学生の徴兵猶予は取り消され、適齢をすぎていた学生は根こそぎ陸海軍に送り込まれていた。
堅い友情に結ばれていた三人は、そろって海軍を志願し、近江海軍航空隊に入隊する。来る日も来る日も肉体の限界をこえる訓練がつづき、何かにつけて「修正!」の声がとんで鉄拳があびせられる。自殺者まで出る苛酷な日々も励ましあって耐え、三人が見違えるほどの凛々しい若者に変貌してゆく過程はばっちり読みごたえ充分である。体をきたえる話って、どうして僕の琴線にこうもふれてくるのだろう。
作者は昭和十九年に海軍に入っている。主人公三人の体験はそのまま作者のものだろう。
だが、作者は自分の体験を直叙する手法をとらなかった。小説は、戦争から四十五年後に書かれた。昨日のことを今日叙せば、繰り言をこえられない戦争体験文学になってしまう。作者がそう考えたかどうか知らないが、四十五年待って、首尾ととのった友情物語に仕立て上げられた。そのおもんばかりの深さが、この小説の最大の眼目に思える。
三人は、昭和二十年五月、訓練を終えて実戦部隊に配属される。さて、ここまで読み進んで、僕がそれまで抑えてきた危惧が思わず声になった。
こんな好青年三人を、作者は死なせるつもりなのだろうか?
こんなやりとりがある。
「今夜も宴会や」
「何の宴会だ」
「きまっとるやないか、君の出陣祝いや。特攻隊にでも行くんやろ」
「僕は生きて帰ってくる」
生きて帰ってくる、と公言する宗之助を、この小説が死なせるはずがない、と僕はひとまず安心する。逞しい大男の春生を死なせる必然もない、と僕は自分を納得させる。
しかし、いちばん影の薄い透は? 彼は志願を決める前、紀伊路を回って法隆寺を訪ねる。
透はひたすら法隆寺の朝をめぐり続けたが、自分という存在が薄れに薄れて、ついには堂塔に吸収されてしまったことが、なによりも爽やかだった。
その旅で、透は守るべき祖国を発見するのだが、透のこの世への惜別と読めなくもない。やっぱり透は死ぬのか……。
しかし、三人の青年は生きて戦争から還ってくる。出版直後の七年前に読んでの再読だったから、三人とも戦後の日本を生きて、命を全うすることは覚えていたが、やはり読みはじめてみると、今度も、どの一人も死なせたくない、三人とも生きて還ってくれ、と祈る思いがわきおこって最後までつきまとった。ふしぎな感覚だった。
全篇に、ある澄明な時間が流れ、世界との快い諧和が獲得されている。これがはたしてどんな経緯の末に得られたかを、本当に味読するには、七年という間合いの再読では短すぎたかもしれない。作者がこの小説を書くのに要した、あるいは待った、四十五年という年月に見合う長い時間が必要だったのではないか、そう思えてきた。
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