ケニアのランニング哲学
著者は気鋭のスポーツライター、サラ・ギアハート。ランニング歴22年で、世界各地のマラソンレースに出場した経験もある彼女は、パンデミック下の2021年4月、単身ケニアに向かった。目的は、「ランニングの聖地」と呼ばれる同国の町イテンに長期滞在して、ランナーやコーチたちを取材し、その日常を間近で観察すること。なかでもギアハートが焦点を定めていたのは、グローバルスポーツコミュニケーション社が運営するトレーングキャンプで合宿生活を送りながら日々の練習に取り組んでいるランナーやコーチ陣だった。そこにはエリウド・キプチョゲをはじめとする世界トップクラスの長距離ランナーと、ケニアの伝説的なランニングコーチ、パトリック・サングがいる。キプチョゲは、マラソン界や陸上界の枠を超えて世界に大きな影響を与えてきた、偉大なランナーである。彼はどんな環境で、どんな練習に取り組んでいるのか? どんなコーチのもとで、どんな指導を受けてきたのだろうか? 同国のトップランナーたちは、どんな思いで日々のランニングに向き合っているのか?
本書には、その秘密が余すところなく書かれている。
サングは理知的で落ち着いた人物だ。また選手への思いやりを忘れない。選手時代にアメリカの大学に留学し、そこで様々な経験を重ね、苦労を味わったことから、ランナーにとって人格を磨くことが極めて大切だという哲学も持っている。サングの人間性やコーチとしての仕事ぶりに、大きな共感を覚えた読者の方も多いのではないだろうか。
また本書には悲運の交通事故からの復帰を目指すマラソンランナーのジョフリー・カムウォロルや、幼い子どもと離れてトレーニングキャンプで生活しながら、東京オリンピックでの金メダルを目指す女子1500mのフェイス・キピエゴンらの有名選手の闘いの物語も描かれている。また、恵まれない環境の中で、成功を手に入れるために国内の熾烈な競争に打ち勝とうとしている大勢のランナーのひたむきな姿も描写されている。様々なランナーの人生を通して、ケニアという国のランニング文化の豊かさや厳しさ、独自の特徴が浮き彫りになっていく。
偉業の影には必ずその立役者がいる。チャンピオンのそばには、必ずそれを影で支えた人物がいる。どんな偉業も、ひとりでは成し遂げられない。たとえそれが、自分の身体ひとつで戦う陸上競技だったとしても。
ひとりのランナーの背後には、必ずそれを支えている大勢の人たちがいる。本書はこの真実を、私たちにこれ以上ないほどの方法で教えてくれるのである。
[書き手]児島修
翻訳家。主な訳書にフィン『ウルトラランナー』、クローリー『ランニング王国を生きる』、フォースバーグ『走ること、生きること』、アシュワンデン『Good to Go』(以上青土社)などがある。