自然を理解、生きものとして生きる
今から半世紀前に、米国で「がん対策法」が発効した時のことは記憶に新しい。当時は不治の病とされていたがんの原因究明と治療法開発への挑戦の始まりである。具体的には、医学に当時急進展していた分子生物学を取り入れ、病原体の可能性があるウイルスの遺伝子解析などを始めたのである。この戦略は成果をあげ、今ではがんの正体はかなり見え、対処法も出てきている。ここで明らかになってきたがんの正体は、従来の病気のイメージとは異なる。「がんは私たちの一部であり、その事実は私たちが多細胞生物になったときから今に至るまで変わらない」と著者は言う。その通りだが、評者は「がんを知ることは、生きているとはどういうことかを知ることだ」とより動的に受け止めている。がん研究がヒトゲノム解析の必要性を求めたことからもそれは明らかだ。
本書の特徴は、体は細胞が構成する生態系であり、そこで各細胞が進化していると見るところにある。そこでの協力が体を機能させるのだが、なかに裏切って無秩序に数を増やす方向に進化するのががんというわけだ(因(ちな)みに原題にはcheatとあり、裏切るよりだますの方が実感に合う気がする)。
多細胞生物内での協力は1無秩序に分裂しない 2集団への脅威となったら自滅する 3資源の共有と輸送 4分業 5環境の世話をルールとして成り立っている。
ところで、このいずれかにもとる遺伝子変異や発現異常が起きて生じたがん細胞への細胞としての自然選択とがん細胞抑制能力が高い個体への自然選択とが重なる「マルチレベル選択」の結果は、がん細胞生き残りとなるのだ。進化とはこういうものなのである。
細胞内にはTP53に代表されるがん抑制遺伝子、個体内には免疫細胞などがん細胞抑制機能がある。とくにTP53は複雑な遺伝子ネットワークの中心にあり、ここに情報処理を集約することで、ある細胞ががん化しているか否かを正確に判断できるようにしているのである。ゾウが体が大きいのにがんになりにくいのは、TP53のコピーを40個も持っており(ヒトは2個)、しかも成長も繁殖時期も遅いからだと考えられている。
がん細胞を進化の視点で捉え、腫瘍の状態に合わせて治療法を変化させる「適応療法」の成果が紹介される。腫瘍を安定させて患者の負担を少なくする療法である。環境を安定させると、より遅い成長戦略をとる細胞が選択されやすくなるのだ。ゾウのように生きると言ったらよいだろうか。
更に、「腫瘍細胞の動的な変化や変化の誘因や、腫瘍細胞にかかる選択圧を測定する」という、生態系での生物と同じように細胞の進化インデックスを見る研究が進んでいる。対象になるのは「腫瘍内の遺伝子の多様性」と「遺伝子の変化率」である。生態系側のインデックスは「腫瘍細胞の環境資源(血液など)」「危険(ハザード)(免疫系など)」であり、これらを総合して、治療に対する腫瘍の反応を予測していくのだ。
がんを根絶でなく、落ち着かせて人の命と生活の質を保証する治療は手の届くところにある。自然を理解し、生きものとして生きる方法は、これからの暮らしすべてに当てはまるのではなかろうか。