統計と歴史から法則を導く
アフガン侵攻が決行された1979年よりも以前の1976年にデビュー作『最後の転落』で旧ソ連の崩壊を予告、グローバリズムが永遠に続き「帝国」にまで上り詰めたかに見えたアメリカの衰退を2002年の『帝国以後』で指摘し、アラブの春やイギリスのEU離脱をも的中させた「予言者」エマニュエル・トッドが、いかにして予言をなしえたのか、思考のプロセスを公開している。といっても哲学めかした小難しい思弁などではない。優れた調理人による料理の手ほどきのように歯切れ良く分かりやすい。ただこのように考えることは、残酷な真実から目を背けたい人、勉学を積み社会に順応しているエリート、事実よりも抽象的理想を優先する学者には苦痛であろう。実際、トッドはフランスにおいては自社会を攻撃しているとみなされ敵視されてきた。「スイユやガリマールなどの一流出版社から本を出版する学者でありながら、もう一方ではいまだに学術界からは認められない」のだ。
トッドはみずからの思考の手順を、入力―創造―分析―法則・予測―出力と定式化している。言い換えると、データ収集(統計、地理情報)-仮説形成・モデル化―検証(比較・歴史的考察・分類による論証)-一般化と予測―学術書もしくは時論の発表、である。近年もフランス国内における反イスラム主義の高まりを糾弾する『シャルリとは誰か?』(文春新書)やコロナをめぐる発言を旺盛に公表しているが、トッドはこの手順を身体にしみ込ませた「思考マシーン」と化しているのだろう。
そのうえで以下を強調している。統計および歴史という事実を出発点とし「アプリオリな」思い入れから自由になって観察すること。データの中でも捏造されやすい経済指標よりも、「生まれたら死ぬという法則」に縛られている人口や、最も弱い人間に起きる不幸である乳児死亡率といった正確かつ「重い」データに注目すること。材料が揃い機が熟すまで、読書とデータ収集を続けること。おかしな数字に気づく「統計学的想像力」を持つこと。現象と現象の間に関係性を見出す「発見」に取り組み、先入観や偏見に反する予言がもたらすリスクを怖れないこと。学術の主張は「当たり前」を覆す「驚き」あってこそ良いものであること、等。
トッドはそうした指針から当時世界中で低下していた乳児(0~1歳)死亡率が旧ソ連では対照的に上昇していることを見出し、社会経済システムの弱体化を推定して、その崩壊を予測した。またイギリスの古い核家族と個人主義には関連性があると唱えたA・マクファーレンの『イギリス個人主義の起源』をより一般化し、家族制度の類型を精緻化して(『世界の多様性』藤原書店)、識字率の高まりとともに表出する(フランスでいえば「自由と平等」といった)思想は古い家族構造の反映だという法則にまとめ、世界各地について検証している。以上2点が学術成果と自負するものだ。
ところが後者に対しては学者から問題の本質とは無関係なことが追及され、「狂っている」とまで酷評された。思想が家族構造により決定されるという主張は人間の自由への侮辱と感じられたらしいとトッドは観測するが、本書の「思考法」からすれば、トッドは価値観を披瀝しているのではなく事実から法則を導いているだけである。
ではこの思考のプロセスはどう評価されるだろうか。私はごく真っ当と評したい。私自身、大学の教養学部の「初年次プログラム」で小論文を執筆させる際、テーマ設定―既存文献を渉猟―仮説形成―論証―論文執筆という手順で説明している。
それだけではない。本書の「仮説形成法」は、社会科学の王道でもある。現象(統計データ)相互の相関関係を見出すという自然科学ぽい作業は現在は「因果推論」と呼ばれ、社会学有数の古典であるE・デュルケームの『自殺論』をなぞるものである。デュルケームは規則性が見られる自殺数を誰もが関心を持つ個人的な事情ではなく、「社会」のあり方と関連づけて法則化し、読者を驚かせた(いまだに死者に対する冒瀆と憤激する人もいる)。今ではデュルケームの方法にも統計学的な見落としがあると指摘されているのだから(たとえば佐藤俊樹『社会学の方法』ミネルヴァ書房)、せめてそのレベルのトッド批判が求められよう。
トッドは驚きに満ちた発見をなしえた理由として、自身がフランス系ユダヤ人かつ非ユダヤ教徒といった何重もの「アウトサイダー」である点を挙げている。もちろんそれは個人の資質として必須なのだろうが、偏見(主観)を排してデータを客観的に見る方法として、社会科学には人文学寄りのKJ法(人類学)やグラウンデッド・セオリー(質的調査)もある。トッドの著作が紛糾に巻き込まれがちなのは、そうした方法を外装しないせいなのかもしれない。
日本社会への言及もある。2世代同居の直系家族は揺るがず社会規律が安定しているが、未来に立ち向かう意志は「無」であり人口減を招いているという。家族構造だけに由来しない思想もありうるということか。