祈りとしての創作に至った「たましい」
没後二十年以上が経つというのに、須賀敦子はいまだにあたらしい作家として発見されつづけている。大部の全集が出て、その文庫版も揃い、私的な書簡や未紹介の資料も刊行されているだけでなく、その生涯と仕事をたどり直す、共感に満ちた作品も複数ある。ただしそれらは生前の須賀敦子を知る書き手によってなされたもので、よい意味で、どこかに対象との距離の近さという磁力が働いていた。しかし本書にはそうした初期設定がない。著者は須賀敦子と面識がないだけでなく、その死後に作品を読みはじめている。そこにあるのは距離の近さではなく、書かれた言葉を介した本質的な近しさ、対象との遠さを前提としなければ成り立たない緊張感のある近さとでも言うべきものだ。もうひとつの大きなちがいは、「キリスト教の中世哲学から現代神学までを、その最前線で学び、それを創造的に受容し、実践した」思想家としての須賀敦子に焦点を当て、その「たましい」の形成過程をともに歩もうとする姿勢にある。
一九九〇年の『ミラノ 霧の風景』から生前最後の著書となった九六年の『ユルスナールの靴』まで、その「作家」活動は六十九年の生涯のなかでわずか七年にすぎない。情理のバランスを駆使した、それでいて揺らぎのある日本語を自在にあやつる作家・翻訳家の顔の向こうには、カトリック教徒としての大きな柱があった。しかも須賀敦子が全身を浸していたのは、同時代のカトリックの本流ではなく、『コルシア書店の仲間たち』で一端が描かれている、「カトリック左派」と呼ばれる運動だった。
著者に従って、実践を伴う思想家という観点から作品を読み返してみると、印象深い出会いのエピソードやなにげない一節のあちこちに信仰とはなにかという問いかけがちりばめられ、須賀敦子がどれほど一貫して信仰の問題を考え続けていたかが理解できる。
節目節目に進むべき道を示してくれた著作、人物は数多い。シエナの聖女カタリナ、アッシジの聖フランチェスコを不動の指標として、エマニュエル・ムーニエ、ジャック・マリタン、トマス・マートンらカトリックの思想家たちが特別な位置を占める。彼らの訓(おし)えを取り入れ、「内なる神の声」を聞き、「神が人のうちに生き、私たちのために祈っていることを発見すること」、そして内面に籠もるだけでなく広く外への働きかけを伴う、俗世における共同体のなかでの祈りを求める信仰を須賀敦子は求めた。
翻訳という批評行為から、晩年の創作への移行は必然だったと思われる。「人間が人間を超えるものを感じながら敬虔であることを失わない生活」のなかで言葉を綴ることは、ここにはいない死者たちに語りかけ、聞こえるはずのない声を聴きとる文学の営為に等しい。それは祈りと同義だった。
死期を悟った頃、須賀敦子は、これからは「宗教と文学について」書きたい、「いままでのものはゴミみたい」と述べていたという。これが『神学大全』を中止した時のトマス・アクィナスの言葉を踏まえた文言であることを、背を伸ばして先導者の少し後を歩いてきた著者は「愛」をもって指摘する。さらに深化した、まぎれもない「たましい」の声として。