書評

『魔の山』(新潮社)

  • 2017/08/01
魔の山 / トーマス・マン
魔の山
  • 著者:トーマス・マン
  • 翻訳:高橋 義孝
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(710ページ)
  • 発売日:1969-02-25
  • ISBN:4102022023
内容紹介:
第一次大戦前、ハンブルク生れの青年ハンス・カストルプはスイス高原ダヴォスのサナトリウムで療養生活を送る。無垢な青年が、ロシア婦人ショーシャを愛し、理性と道徳に絶対の信頼を置く民主主義者セテムブリーニ、独裁によって神の国をうち樹てようとする虚無主義者ナフタ等と知り合い自己を形成してゆく過程を描き、“人間"と“人生"の真相を追究したドイツ教養小説の大作。

ナフタの絶叫

『魔の山』に出てくるナフタというオーストリア生まれの男は、トーマス・マンの全作品の中でも、恐らくは最もアクの強い、例外的に奇怪な登場人物である。

まず容貌が恐ろしく醜い。それから、「屠殺者」(Schochet)であった父親が、あらぬ疑いを掛けられて村人から惨殺され、程なく母親も亡くして、孤児となってしまうという悲劇的な過去を持っている。更に長じてからは不治の病に冒され、嘱望された将来も断念せざるを得ないという有様である。

その一方で、イエズス会の潤沢な資金によって、論敵のセテムブリーニとは対照的な豪奢な部屋に住み、高価な洋服を着て、贅沢な暮らしをしている。そして、頭脳は恐ろしく明晰であり、思想的には、テロルによって神の国の実現を目指すという凄まじい過激派である。

マンがこんな人物を造形したのには、当然にこの作品の執筆中に経験した、第一次世界大戦の影響があったはずである。ドイツにとって、第一次大戦の衝撃が、第二次大戦以上のものであったとはしばしば指摘されることで、今更強調するまでもないが、『魔の山』は『非政治的人間の考察』に於いて、明白に保守派の論陣を張ったはずのマンが、一種の思想的な混迷へと陥りながら、殆ど手探りの状態で書き続けた小説であり、それ故に、ナフタの造形は、彼が自らの内に抱え込んでいた「頽廃」の暗部――それも、『ヴェニスに死す』のような作品で、耽美的に描き出していた一面を、政治的、思想的な課題の俎上に載せるための重要な試みであったはずである。

ナフタという人物の問題を、その思想に限定して、性格その他を単なる味つけに過ぎないと見倣すことは軽率な誤りであろう。ナフタは飽くまで、思想を含めたその全体としての問題である。実際に、『魔の山』の中のセテムブリーニとナフタとの議論は、例えばプラトンの対話篇などのように厳密な思想的言語のぶつかり合いというよりは、しばしば逸脱し、感情的に混濁してしまう肉声的なものであり、それ故に場面によってはかなり戯画化されて描かれていて、本来、「タブラ・ラサ」的な性格を与えられて作品に放り込まれているはずの主人公ハンス・カストルプをさえ、ついに感化することが出来ない。マンの意図は、しばしば誤解されているように、その議論の内容を教養主義的に読者に知らしめるということでは全くない。寧ろその逆である。そうした衝突に表れている様相の「いかがわしさ」を読者に理解させることにこそあったはずである。

マンは、ゲーテの『ファウスト』について語ったように、この小説を彼の思想上の「真剣な戯れ」と考えていたようだし、主人公のハンス・カストルプにも、再三「陣取り」という言葉で、その心理的、思想的動揺を表現させているが、読者は、彼へと伸びる誘惑の手が、悉く病んだ、「いかがわしい」ものであるという事実を見なければならない。その最も魅力的で美しい例がショーシャであるとするならば、その最も醜く、おぞましい例こそがナフタである。そして、極めて受動的ではあるが、感じ易く、ナイーヴな性格を与えられているハンス・カストルプでさえ、恐らく作者にとっては一つの病んだ誘惑であったのだろう。

こうした小説の主題は、恐らくは、サナトリウムに到着したての主人公が、隣部屋から聞こえてくるロシア人夫妻の性交渉の音を聞いてしまう、あの生々しい冒頭の場面で、既に予告されていたのではあるまいか。

他方、小説のハイライトは、恐らく例の雪山での遭難場面であろうが、私はそれと同じく、ハンスが「こっくりさん」で死んだいとこの姿を見てしまう場面と、殊にナフタの自殺の場面とを挙げたい。

マンは、自らを「精神の世界に迷い込んだ市民」と称する通り、デモーニッシュなものに魅せられる御しがたい心情を有しながらも、それを押し留めようとする健康な思想を持っていた。それは、個人的には、近親者が次々と自殺していってしまう彼の血の問題に拘わっていたのかもしれないし、少年愛的性向の自覚もあったであろう。そして、政治思想的には、何故、ドイツはナチズムという病を発病するに至ったかという大問題と直結していたはずである。

自殺するナフタが、決闘を回避したセテムブリー二に浴びせかける、あの「卑怯者!」という絶叫は、あらゆる思慮深い、穏健な思想に対して、絶望的な方法により問題の破滅的「打開」を図ろうとする欲動が投げ掛ける、暗く、激しい愚弄と挑発の声である。マンはそうした「いかがわしさ」を誰よりも知悉していた。さもなくば、どうして彼の「市民」という言葉が、滑稽に響かないことがあるだろうか。

【この書評が収録されている書籍】
モノローグ / 平野 啓一郎
モノローグ
  • 著者:平野 啓一郎
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(392ページ)
  • 発売日:2007-12-05
  • ISBN:4062143895
内容紹介:
三島由紀夫の新たな読みを提示した「『金閣寺』論」、「『英霊の声』論」を中心に、文学、音楽、美術、建築、そして、自らの作品について論じたファーストエッセイ集。『日蝕』の衝撃的デビューから現在まで、常に時代の最前線に立ちつづけた著者の軌跡。

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魔の山 / トーマス・マン
魔の山
  • 著者:トーマス・マン
  • 翻訳:高橋 義孝
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(710ページ)
  • 発売日:1969-02-25
  • ISBN:4102022023
内容紹介:
第一次大戦前、ハンブルク生れの青年ハンス・カストルプはスイス高原ダヴォスのサナトリウムで療養生活を送る。無垢な青年が、ロシア婦人ショーシャを愛し、理性と道徳に絶対の信頼を置く民主主義者セテムブリーニ、独裁によって神の国をうち樹てようとする虚無主義者ナフタ等と知り合い自己を形成してゆく過程を描き、“人間"と“人生"の真相を追究したドイツ教養小説の大作。

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初出メディア

新潮

新潮 2004年6月

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